富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三月十九日(水)春らしい濃霧に湿気、小雨降る。朝日の社説に(……って購読してないのだけど)「この戦争を憂える―ブッシュ氏の最後通告」という題。おっ、朝日もついに満を持して戦争反対か、と期待したが読んで椅子から転げ落ちる。「日米同盟だけでなく、欧州諸国とも連携した国際協調を巧みに使ってこそ、日本の利益になる。米国が強大化し、国連の権威が揺らいでいる時、日本はその原点を見失ってはならない」って、いったい何をすればいいの?、これって米国も支持しながら欧州にも色目つかって、けっきょく何もしてないこと。これって明確な米国支持よりもっとたち悪し。昨日の「パウエル氏はこれでいいと思っているのだろうか」に引き続き呆れた論調。余りに呆れて朝日の広報部にお電話差し上げる。応対した方も「確かにこれじゃイエスかノーかわかりませんなぁ」と(笑)。「いまの日本のメディアの状況でですね、朝日がはっきりノーの立場を取らなかったら誰がとるのですか? 朝日の読者が朝日に期待してるのはそのノーのはっきりした解答のはずですよ」と言ってはみたが、所詮、論説委員が読者の方ではなく社長・箱島の方を向いて書いているのが事実、期待できないのだ。実は赤い朝日よりも毎日新聞のほうが主張は明白で19日の社説「首相支持表明 その理由をなぜ語らない」は秀逸。同日の「イラク最後通告 決議なき開戦は支持できぬ」も朝日に比べてマシなのだ。暮六ツにA氏とハッピーバレー景光街の正斗。猪鮮腰潤(茹豚レバー)肴に麦酒一飲。ハッピーバレーで競馬開催ながら疲れて一晩競馬に遊ぶ覇気もなく帰宅。中おち丼。テレビ中継で競馬。今晩の冠レースはR5の芝1200mが香港ラグビー総会杯、李格力君一番人気は外すことが多いがHonour Supremeは冠レースに強い伍さんが調教、辛勝だったが一着。本当にハッピーバレーの冠レース、伍さんと李格力君強い。最近競馬場行ってないから当然なのだが伍さんにも李格力君にもおめでとうも言えず。
田中真紀子という名前、日本では過去の記憶になりつつあるが、 South China Morning Post紙の論説に田中真紀子による “Silence on world affairs carries a price”という論評あり。 要旨は日本は国際問題についての積極的な言及、対応に欠けており、それは戦後半世紀の米国に依存した安全保障のなかで培われてしまったのだが、国防問題も内閣で真摯な議論もされず国民に積極的な討論も呼びかけず、というようなわけで解決すべき問題を解決せぬまま今日に至っている、そういった広汎な議論と取り組みが大切、と、内容はとくに大したことはないが、少なくとも、これがProject Syndicateによる配給で世界の新聞に配信されているわけで、小泉三世はじめ日本の内にしか語れず、しかも語る言葉に具体的な提言もない状況からすると、こうして日本の政治家で英語できちんと世界に発言できているだけもマシ。結局、この田中真紀子であるとか田中康夫であると異端者が海外のマスコミが真に取材してコメントが取れる相手となってしまっているのだ。
▼ 財政司・梁錦松君、新年度予算で自動車登記税の大幅引上げあり、梁本人がその増税案に携わっていながら1月にトヨタLexus購入……という一件(詳細は今月十六日の日剩にあり)。梁本人は辞表を提出しながら董建華に引き留められているような状況だが、立法会の小委員会にて詰問あり梁曰く妻(オリンピック中国代表で高飛び込み金メダル)と生まれたばかりの娘への愛が梁を盲目にした。英語でも新聞の見出しはLove made me blindなのだが日本ではこういった表現は目の不自由な人を傷つけるから、と、この表現もできぬのだろう。盲は盲、事実なのであって盲というのは視力がないという事実は事実、だがそれを差別することがおかしいのであって、寧ろ盲という言葉すら見えないところに押し込んでしまうことこそ偏見、ましては「目の不自由な人」などという表現こそ差別的ではないか。で、この一件、18日のSouth China Morning Postは社説で「行政長官(董)は梁錦松を更迭せよ」と。かつて英国統治時代は香港政庁の御用新聞的色彩もあったのに、郭氏という財閥に買収されながら政府に対してこの強い姿勢……と評価できる気も一瞬するのだが、先日の「董建華を総書記に」という社説にしてもこれにしても、じつはこの主張は北京政府の本音の代弁機能を果たしているのでは?といふ気がしてならず。
▼ 香港の謎の肺炎重症急性呼吸器症候群SARS)というそうな、今日現在123名の感染者で、うち111名が肺炎。現在のところ感染者は患者との至近距離での接触による飛沫感染で咳、嚏から感染。沙田のPrince of Wales Hospitalでの大量感染は旧正月に内地より戻った者が感染源とまで判明。M君曰く、SARSってSARといえば(香港)特別行政区(Special Administrative Region)なわけでSARS特別行政区症候群、とM君。言い得てる。
▼ 椅子から転げ落ちたといえば、17日の日経、泉宣道・中国総局長による中国の新首相・温家宝君の紹介記事、温君が徹底した現場主義で貧困地帯など徹底的に視察、視察も途中で車を突然止めてどこかの村を訪れるほど、と。そこまではいいのだが「こうしたスタイルは第一次中曽根内閣の官房長官を務めた後藤田正晴氏に似ている」と。へぇカミソリ後藤田もお決りの視察中にこんな抜打ちしたんだ、大したものだなぁ、と思ったら「当時の後藤田氏は週末、本人とわからないよう帽子をかぶって夫人と都内の百貨店などに赴き」って、おい、そりゃ単なる週末の買い物だよ(笑)、共産党のノーメンクラーツラのお仕着せの地方視察での抜打ち視察じゃない。これだけなら爆笑するだけで椅子から転げ落ちるほどぢゃないのだが、後藤田氏のこのお忍びを「庶民の生活実態を見て回った」と「」つけて書いてるから後藤田先生本人の言及なのだろうか、後藤田君、キミもじゅうぶんに庶民だ、って。週末にデパートに夫人同伴で買い物してるだけでじゅうぶん庶民(笑)。中国総局長に「泉さん、新首相紹介する、なんかいかにも北京発って感じの、書いてくれないかなぁ」と頼んで、この後藤田エピソード入りのが届いたら、もし余がデスクなり編集であったら後藤田のこれは削るだろう、完全にそれとこれは違う次元の話。
▼ 昨日の国立の話、「反戦イメージが強すぎる」って校長は言ったそうだが、それぢゃ「好戦的」だったらいいのかな、などと揶揄してもつまらないか。結局、問題は画一化を狙う姿勢だろう。例えば米国ならKKKの強いコテコテの中西部もあればメリーランドのような伝統的リベラルからカリフォルニアのような民主党地盤がある。その棲み分けがあり、お互い自分たちが快適な暮らしをする。それでいいのだ。東京でいえば国立の風土が好きな人が自治すればいいのであり、それを日の丸を掲げていないだの君が代を歌っていないだのとして「正常化」することが異常。そういうことがお好きな方はどうぞ中野、国立にお住まいください、で勝手にやってください、でいいのだ。公教育だから、全部で画一的に同じことがされていないと困る、という、もちろん近代の国家による教育の施しといふのは<国民>の養成が主目的であり、そういふ意味ではもちろん国民の養成に支障のある、かつての国立のような「偏向教育」は困るのだろうが、国民の側にもニーズというものがある。少なくとも、教育基本法の改正であるとか国旗国歌の徹底で今日の教育の問題が改善するわけもなく、それなら寧ろ地域社会のニーズにあった教育ができるよう放置してしまったほうがいいはず。となると故・山住先生の文部省解体論になる。長野では田中康夫ちゃんによる教育改革がかなり旧守派によって拒まれるのも、脱ダム以上に問題なのはダムは土建癒着の問題だけだが「教育は国の根幹」であって、せっかく明治以来構築してきた近代国家による公教育を、戦後すぐの教育改革という「危機」のなかで教育委員会の公選制を中止し「是正」し、赤化教員の排除、国旗国歌と努力を続け総仕上げとして教育基本法改正まで辿りつこうといふ矢先にたかだか一知事によって破壊されては困る、ってわけ。
▼ 国立であるとか一部の「進歩的」或いは「偏向した」地域、学校にあっては国旗掲げられず国歌歌われず、それの徹底を宿命づけられている校長は赤化教員との交渉に疲れ自殺してしまったりまでしているが、国家による翼賛化に反対する側も考えるべきことは、まず、公教育というものは近代国家において国民の養成を目的として始まったもの、であること。江戸時代の寺子屋とは違う。国家が創造した教育なのだから愛国心を教えようとせぬわけなし。ただし問題は米国の場合、偏狭なナショナリズムに非ず基本には建国以来の普遍的な理念あり、日本は偏狭なナショナリズムか或いは『近代の超克』に象徴される極端な、豊葦原瑞穂国以来の母に抱かれるが如き漠然とした日本の伝統の如きものにイッてしまうから困ったもの。そして、入学式であるとか卒業式であるとかは集団の儀式であること。儀式ぢたいが象徴的な行為であり、その行為には集団を統率する象徴が必要なわけで、それが仏蘭西であれば仏蘭西革命からの理念であったり、中国であれば毛沢東であり、それが日本では戦後は陛下を頂けず、本来は憲法がそれに当るべきところ自らそれを血だの肉にできておらぬから、そこで象徴となるのは国旗と国歌に他ならぬ。それを仰ぎ謡う時の、母に抱かれたが如き恍惚に酔ふ。儀式だから、そういう演出が必要なのだ。この、国民の養成と儀式の象徴性という二点において、日本で国旗国歌が徹底されることは必然のなりゆき、ということか。