富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

一月二十九日(水)晴れ。アンドレ=ジッドの日記、1950年代新潮社より刊行、その出訳決定版日本 図書センターより出版、全5卷。92年に小澤書店出版に挑み途中中断していたものを継続、と(日本図書新聞)。 読みたし、が分売不可の3万円。昨年購入せし荷風斷腸亭日剩(岩波書店)全7卷35,800円と遜色なし、だが高いことにかわりなし。晩に搭りたる的士の 運転手、最初機嫌よき人が銅鑼湾に入りヴィクトリア公園にて旧正月前控えた花市での渋滞(正確には花市の人出などまだ可 愛いものの公園前にて泊まる路線バスの数ばかり多く弊害)に巻き込まれむとする瞬間から「予感」あったのだが運転手氏「湾仔経由する」とい ふゆえ時間多少早いかも知れぬが道程加算され料金に変わりなく花市見物も兼ね公園傍通るよう請ふと途端に自律神経失調始まり軽い痙攣にて首振り必要以上に ブレーキ踏みアクセル蒸し無理な割込み、窓開けて吐痰、独り言、渋滞への罵詈雑言と逗まる処知らず。それで渋滞過ぎれば高速でとばし機嫌よし。怖い。コ ロッケ揚げる。米国大統領の一般教書演説あり。米国と世界は(イラクの)核と生物兵器の恐怖に曝されてい る……と。世界が曝されているのは米国の覇権主義と軍事的脅威に他ならず。それにしても大統領・小布殊君の知力の低さは今更言うまひが、あの教書演説の物 言い、あれってSimon & Garfunkelの81年の紐育Central Parkコンサート聴けばわかるがPaul Simonの曲間のMCと同じ吟誦、彼の国おいて多数の聴衆が最もsmoothに聞き入られる吟誦使っていないか、訓練して(ブッシュと並べるとはPaul Simonに失礼か)。いずれにせよあの程度の演説に、演説する方のことは今更言ふまひが、あれを聴いてスタンディングオヴェーションして しまふ聴衆=議員如いてはその議員選ぶ国民に恥ずかしさなきものか。言葉として米国の正義、自由といわれると何も否定できず盲目的に称賛せねばならぬ、そ の思考での不自由さを憂ふ。勿論、正義と自由は普遍的価値観、ただ問題はそれにいつも「米国の」と冠らないと気が済まぬ、その尊大さこそこの国家の生命源 であり最大の不幸。小熊英二『<民主>と<愛国>』少し読む。大嶽秀夫(独逸での客員研究を経て仙台に戻った大嶽先生の 帰国記念公演、懐かしき20年ほど前のこと)『戦後日本防衛問題資料集』三一書房よりの引用にて1951年の「まだマトモだった」社会党再軍備反対決議に「再軍備自衛権を混合せず、冷静に区分して考えねばならずぬ」とあり。自衛権そのものは認めるが現状の再軍備は一種の「傭兵」にすぎ ず、「第三次世界大戦に引き込まれる危険をもっている」と。自民党に利用されての自社連立の時にこのような理念あればまだマシだったが、キョービの現実は 「再軍備」を「イーズス艦派遣」と置き換えればそのまま。
▼昨日の産経新聞産経抄」に「連続優勝した朝青龍横綱昇進は文句なしだが、初場所各段の優勝力士の顔ぶれ一覧に はただ驚く。“青い目”一色だからだ」とあり、と築地H君。実際には序の口のブルガリア力士は青い目かもしれぬが幕下がグルジア十両、三段目がモンゴル で序二段はアマガルサキ、とグルシアはよくわからぬが少なくても青い目は一人かせいぜい二人、“一色”ぢゃないだろーが。外人=青い目、って明治時代ぢゃ ないんだから。「産経抄」やめて「産経妙」のほうがいい題かも。朝日も読売もひどいが産経から比べるとまだ腐っても鯛、か。H君曰く、朝日と読売の差より 読売と産経の間の断絶は大きい、と。御意。しかもこの日の産経の紙面、「もんじゅ訴訟原告全面勝訴」を大きく扱いたくない一心で朝青龍とアメフトスーパー ボウルをカラー写真入りで一面センターだそうな。呆れてモノも言えず。
▼再び雀右衛門の美について。築地H君と。雀さま昨日紹介せし「老人面」にて曰く「女形で縮めた体が、もと の男の体に戻りにくくなった」のでストレッチに念を入れてるとか。H君「女形の身体とベルサーチの革ジャケット着る身体は同じ雀さんの身体であって而も一 つの身体にあらず、か」と。この肉体に対する思想、普段から女で生きてる大成駒や大和屋とは別の身体観。而も「太ってはいけない」という厳しい自己鍛練を 規している点で梅幸・雁治郎とも明らかに一線画すもの、とH君。ふつう82歳にもなれば「体重が落ちないように」養生するもの(H君)。そういった意味でライバル?は異形の女形芝翫丈か。ただ神谷町のおじさん(芝翫)の場合は「紳士がお婆 さん」に変化するわけで(川口松太郎「江戸みやげ」で宗十郎相棒にした「おばさん」役は芝翫の生涯の当り役と、H君)革ジャンの兄貴が花魁揚巻になる京屋(雀右衛門)とはかなり異る変化。そういう意味では梅沢富美男あたりが本当のライバルか?とH君。かなり近いかも。 ただし女に変化する前のダンディズムにおいては京屋、一枚も二枚も上手か。
▼首相小泉三世、参院予算委員会にて靖国に対して見解表明(朝日)。 「死者に生前の罪まで着せて、死んでも許さないというのは、日本人にはあまりなじまないんじゃないか」という点は理解し難くもなし。が「こういう気持ちも 外国の方には理解して頂きたい」といふのが、しかもその死者=軍人により土地を蹂躙され肉親殺された人々にとっては「日本人の生死観」で済まされる次元で なきこと。それを踏まえず「理解してほしい」といふのは甘え。それにしても「私が首相である限り、時期にはこだわらないが、毎年、靖国神社に参拝する気持 ちに変わりはない」と小泉君。「首相やめたら参拝しないのか?」と揶揄はせぬが。官房長官福田二世「個人の立場で、自らの心情から出た行動ですから、その ことについて政府としてとやかく言うべき筋合いのものではない」と述べるが詭弁、首相といふ公人であるからこそ「個人の立場で自らの心情から出た行動」が 個人の範疇では済まぬのであり……と書いていてまた思いだすは彼の国のクリントン君の情事、あれも言い方によっては「個人の立場で自らの心情から出た行 動」か。いずれにせよ小泉三世一昨年七月の党首討論会にて述べたといふ「日本人の国民感情として亡くなるとすべて仏様になる」といふ発言は明らかに拙し。 国民感情といふが仏様になるのは仏教のみ、しかもそれは仏教徒の信心であり国民感情でなし。こういった発言をしてしまふ智慧のなさ。この発言にも勝るとも 劣らず、否、相手国にて表明してしまった点では更に拙劣なのが中国大使阿南二世、今月14日に小泉三世靖国参拝について中国外務省に呼びだされた際「首相 は自らの政治信条に基づき、日本の国民感情を考慮して参拝したと思う」と宣ふ(朝 日)。小泉三世の「自らの政治信条」は正しかろうが「国民感情を考慮」と……靖国に対しては国民の意思統一された「首相に参拝を願 う」意思など形成されておらず、寧ろ世論を二分する大きな問題。それを相手国にてかう伝えるとは、外務省チャイナスクールの優等生にて親中派の官僚と言わ れているが、さすが太平洋戦争開戦時に帝国陸軍第11軍司令官として漢口(武漢)にあり陸軍大将を経て 45年終戦直前の鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣、御前会議で本土決戦主張し敗戦の日に自刀せし阿南惟幾(一世)の ご子息、当然のことながら阿南大将、靖国の神のお一人として祀られ、阿南家にとって靖国を奉るは当然=国民感情か。それにしても阿南大将の遺文「一死以テ 大罪ヲ謝シ奉ル」、残念ながら阿南一世の一死を以ても殺された側の赦しなど得られるはずもなし。「神州不滅ヲ確信シツゝ」と遺すが神州すでに滅びて久しか らず。