富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農歴壬午年十一月廿二日。薄曇。テレビのニュース報道見れば尖沙咀の波止場附近、昨晩は聖誕節にて異 教徒ども朝まで騒ぎゴミ散乱し芸術中心の壁にスプレーで落書きなどの狼藉甚だし。醜悪。昼まえにZ嬢とジム。ジムのお師匠さんなどメリークリスマスを連 呼、タイ人の如く合掌してメリークリスマスと応じるのも一興ながらアタシは古拙(アルカイック)な笑みに て応えたが、何故相手誰かれともなく耶蘇教の祝福をするのか、仏教徒イスラム教徒もそれの祝祭を相手誰彼ともなくせぬことを思えば、耶蘇のそれは考えれ ば考えるほど不可思議。殊更、異教徒がその祝福を誰彼ともなく口にすることはもっと奇っ怪。それでも星巴珈琲にしてもジムの更衣室の受付にしても聖誕老人 の帽子など被り節句気分だが何故か他の客にはメリークリスマスと愛想売るのにアタシにはなし。何故か、アタシャ異教徒顔か、Z嬢は彼らはアタシを坊主だと 思っているのでは?と。御意。星巴から眺める蘭桂坊の通りに昨晩からの遊興の果てか路頭に迷う小僧ども多し。何もすることもなく、かといつて無我の境地に も至らずただ浮遊するさままことに哀れなり。昨晩は聖誕前夜にて騒ぎすぎか普段の日曜よりも人出の少ない中環にて快適に買い物。永吉街の忠記にて雲呑麺。 中環に老舗の麺舗多いなかアタシはこの店が贔屓だねぇ。他の多くが日曜祭日休みのなか忠記は年中無休も嬉しいところ。Brooks Brothersにて上着とシャツ購ふ。街も空いて柔らかな陽射しのなか普段乗らぬトラムにて帰宅。Z嬢と海沿いに出て歩いてShau Kei Wanの海 防博物館。明朝以来の香港海域での海防の歴史を、この海の要所たる鯉魚門の高台にあった砲台古蹟、とくに英軍による山の頂を刳貫いて造営した施設 をうまく利用して作った博物館にて展示。殊に日本軍占領期については尖沙咀東の香港歴史 博物館より此処のようが展示内容充実し、奇しくも本日は1941年に日本軍が香港占領をした香港陥落の日なり。而も広東省から攻め入った日本軍は この鯉魚門より香港島に上陸。博物館を出て黄昏に阿公岩の譚公廟よりShau Kei Wan東大街を散歩。南千住の如き下町の古くからの商店街。帰宅して昼に中環の金+庸記で仕入れた焼鵝と叉焼をVieux Ch Landon '99飲みつつ食す。何年前だったか聖誕夜に七面鳥売れるを見て七面鳥の丸焼きより香港なら金+庸記の焼鵝のほうが美味と、粤菜としての焼鵝なら深井の裕 記などのほうが美味いのだが肉厚の金+庸記の焼鵝はフランス料理と思って食せば美味いのでは?と敢えて赤葡萄酒に合わせてみると格別。それ以来、毎年、聖 誕夜にZ嬢と「基督教とは何か」また「西洋とアジアのそれぞれの誤解」につき語りつつワイン飲んで金+庸記の焼鵝食すことが習慣となる。
汝ら潔き接吻をもて互に安否を問へ(コリント人への前の書第16章20 節)
▼築地のH君よりの通報で某都知事の「バ バア発言」知る。生殖年齢を過ぎた女がいつまでも生き残ってるのは人類だけのムダ、とか。元ネタは東大の松 井孝典教授で「霊長類や類人猿、あるいはネアンデルタール人などを含む、現世ヒト種以外のすべての種では、メスの寿命と生殖年齢はほぼ一致する。 ただ人類だけが<おばあさん>をもった。<おばあさん>による次世代への知識の伝達や生殖メスの支援などによって、ヒトの種としての繁殖能力は爆発的に高 まり、その結果、ヒトは地球における優占種となった」と。つまり「おばあさんの出現が、人類を人類たらしめた」ということ。確かにね。アタシ自身も祖母か ら受けた生きるための無駄なようで無駄ぢゃないノウハウがアタシの素養のかなり根本にある。祖父は存在はあったのだが語らず。この松井教授の理論をどうも 都知事はお得意の短絡的な解釈で「ババアは人類のムダ」と思ったらしいが、H君曰く読解力、理解力の乏しさからして「政治家はもちろん作家の方もやめるべ き」と。御意。この都知事の存在ぢたいが人類の無駄、か。
▼首相小泉君、そういえば今日の朝日の解説(小此木潔)で 「小泉改革、もはや失速」と書かれていたが最初からダメなものはダメなのであって期待した国民にも大きな過失ありなのだが、小泉君昨晩は赤坂の楼外楼飯 店にて元衆議院議員松野頼三君と食事を済ませ、その脚で紀尾井町の福田家にて中曽根大勲位、La cervelle de requin(註)森、「弟よ」都知事、党国対委員長中川某と会食。小泉君、二度も夕食するほどそんなに空腹か(嗤)。すごい面子なり。夜な夜なこのやうな人たちがご相伴で何が改革か、笑止千万。
(註)cervelleは脳味噌、requinは鮫の意、サメの脳味噌で はあまりに下品なため雅語としてフランス語を使おう!
▼朝日の都はるみのインタビュー記事で北朝鮮被拉致者の浜本富貴恵さんが帰国して「北の宿から」を歌った、 と。76年のこの曲を当時、誰もが「北の宿」といふ能記(signifiant)から所記(signifie)として寒さ厳しい北国はイメージしたが北は北でも凍土の共和国とは思いもせず。歌詞もそのま ま、まさに被拉致者にとっての北。