富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十二月初一日(日)曇。澳門馬拉松にて半程に三年連続して参加。風邪にて体調絶不調にて雨降り気温下 がれば棄権と申していたものの雨降らず気温も20度と棄権の言い訳通らず途中にて体調悪ければ4kmにてホテル前通過のためホテルに駆込めば、と出発。前 半調子よく5:20/kmと記録的な快走ながら給水にてかなり水分摂るものの新陳代謝激しく汗となり脱水症状の如し。後半、とくに最後の数キロにてすでに 残す体力なくかなりの数の走者に抜かれつつ2:02台にて到着。二時間をまたしても上回れず。後続や全程に参加した友人の到着を待たずホテルに直帰し悪寒 ひどくブランデー二口飮してのつもりが三口となり、湯治。かなりお湯につかり蒸風呂に篭るが悪寒失せたものの回復せず。半身浴にて荷風日記昭和11年の春 を読む。荷風先生曰く「現代の日本人は自分の気に入らぬ事あり、また自分の思ふやうにならぬ事あれば、直に兇器を振ツて人を殺しおのれも死する事を名誉と なせるが如し」「むかし屈原は世を憤りしが人を殺さず、詩賦を貽して汨羅の鬼となりき」「現代日本人の暴悪残忍なるは真に恐るべし」と。このリゾートクラ ブ、澳門のそこそこの名士の集会所らしく殊にポルトガル人の形相交じった地元の紳士だの、いかにも人民解放軍にいたであろう、父の党藉の恩恵にて澳門にて 商売する大陸の若きプチブルだの多し。昼、部屋に戻りビタミン剤とアミノ酸摂取しマカオビール試飲。常温にてはかなりイケるが冷しては味なしと思う。日記 綴る。午後Hyattの料理屋Flamingosにてランニングクラブの面々と会食。昨年まで二年続けてシャンペン数本抜栓し発砲せしコルクを池泳ぐ鴨に 向ける真似するが如きどんちゃん騒ぎながら今年は時世鑑みシャンペンもMoet & Chandonより葡萄牙産の発泡酒に変え、それでも十名にて晝から四本空けて愉快なり。夕方のフェリーにて香港に戻る。冷酒にて皿うどん食す。
▼福岡市にて同市校長会「学習指導要領に沿って」通知表に6年生の社会科として「国を愛する心情」「日本人 としての自覚」といった評価項目設けこれを同市144校中52校が採用と(朝日)。義務教育は確かに国家 が国民教育を施すために設けた装置であるのは事実ながら国籍や思想信条などに係わらず教育を受ける権利を児童が有するものにて当然のことながら在日朝鮮人 などの児童、異見を有する児童に対して「国を愛する心情」「日本人としての自覚」など問うことの異常性がわからぬ福岡市校長会こそ「教育者としての自覚」 乏しき愚かさ。余は「国を愛するな」などと言っているのではなし。問題は国を愛するといふ時に国家は一つの尺度、考え方での愛国心を強要し、それに対する 思想信条を排除することの問題性。例えば国を愛するがゆえに侵略の歴史を語る者もいれば日の丸を掲げぬ者もあるのを、「侵略戦争」史観に固守し日の丸掲げ れば愛国心の欠如、非国民と捉えることの問題性。かりに福岡市において卒業式で国旗国家に礼を尽くさぬだけにて国を愛する心情にも日本人としての自覚にも 欠ける、と評価されること。いずれにせよいくらこうしたことを述べても、こういった感性乏しき校長とは結局のところ国旗国歌組合勤務評定といった踏み絵を 経て教育委員会の子飼いとして出世しただけの者少なからず、が現状にて体制に擦り寄る以外に何の知力もあるはずなし。勿論、このような愚考に疑問を呈す良 心と知性ある校長もいようがこのファッショの時代にあっては異見呈することは即ち失職にてせめてもの抵抗として自らの学校のみこういった害毒の潜入を防 ぐ、か。
教育基本法改正をめぐる中教審公聴会開催。「国を愛する心」につき千葉県の元民生委員・田村治子 (59)は「愛国心を教えなかった戦後の教育を深く反省する時期が来ている」などと宣うが、国旗国歌が強制され教育基本法の見直しが叫ばれ福岡市の校長が 愛国心と日本人としての自覚を小6の社会科の評価に盛り込み……こういった「成果」は愛国心を教えた戦後教育がいかに徹底できたか、を物語るものだろう が。具体的な考察もなきままこのような公聴会に招かれたことで高揚して責任も根拠もなき発言するべからず。静岡県の高校教諭・深沢直幸(40)は「生徒を 見ていると日本人としての精神や文化、伝統が欠如している。日本の文化の体現者となることを目指す国民教育を考えなければならない」と。日本人としての精 神とは何ぞや。文化、伝統が欠如しているといふが文化、伝統など学校教育などという範疇にて「教える」ものに非ず。日本の文化の体現者とは?、しかもそれ を国民教育にて……呆れる。このような愚者とは近づきたくなきもの。国家体制を信奉しそれに寄与するものが愛国心など掲げるは自由ながら、それを語る時に 文化だの伝統などを用いることが甚だ不快。文化、伝統などに感けた国民教育など実体なき虚構にすぎず。……と書いて風呂にて朝日読めば元防衛庁長官!栗原 祐幸氏、中曽根大勲位の『21世紀 日本の国家戦略』なる本にて大勲位教育基本法は米国の強要に屈したもの、という記述を正した上で「政界でも、教育を めぐる論議でも、指導的立場にある人はその言動に正確を期してもらいたい」と大勲位に物申し(ちなみに氏は第三次中曽根内閣で の防衛庁長官なのだ)、「人間はその本性からして社会的な存在であり、現実に国家や民族あるいは社会を離れては存在し得ない」としつつ「愛 国心とは、あるがままの国を無批判に肯定するものではない。よりよい国、より価値のある国を作ろうとするのが愛国心である」とし「祖国愛・郷土愛は一歩誤 ると危険な事態を招く」のであり中教審中間報告にて「国を愛する心や伝統文化の尊重という表現は、国家至上主義的考え方や全体主義的なものになてはなら い」という修正意見がつけられているものの「ただし書きを付けねばならぬような文言は基本理念になじまない」と一喝。御意。
▼昨晩読了の橋本治三島由紀夫とは』に水谷八重子についての興味深き記述あり。八重子は「前近代によって 進む道を阻まれた、女の形をした近代」と。治ちゃんらしい抽象的な書き方ながら、要は杉村春子は「前近代に頓着することのない、近代の形をした女」であ り、これは春子の戦前の芝居との関わりを思えばわかりやすいが、それに対して八重子は新派に入ったがために、そこには喜多村緑郎だの花柳章太郎だの「女よ り女を演じることに優れた前近代の男たち」いた、ということ。治ちゃんは子供のころになぜ母が八重子の芝居をみて「きれいねぇ」と言うのか理解できなかっ た、と。緑郎の華やかな芝居に比べ八重子の演じる写実的な女の形にちっとも「きれい」を感じられなかった、と橋本少年。身の丈のままの女に女の客がそこに 美を見出せた、といふこと。実は余も歌舞伎ならわかるが祖母や母が「八重子、八重子」と新派の芝居を見る理由わからずのまま、今日になってこの記述にて理 解出来る。で、この水谷八重子こそ「最も三島由紀夫的な女優」だったわけで、三島とはつまり「前近代によって進む道を阻まれた、男の形をした近代」であ る、と。で、ここでは触れられてはいないのだが、坂東玉三郎とは何か、を問えば、余が思うに、本来はその前近代の女形のなかでどっぷりと伝統的な女形を修 養するはずのところ女形の世界はすでに六世歌右衛門によって「改良」されており、まさかこの玉三郎少年がこってりした伝統的な女形梅幸から学ぶわけにも いかず、結局その「前近代によって進む道を阻まれた、女の形をした近代」である新派の八重子の女の形を受け継ぐことになる。つまり治ちゃん的にいえば玉三 郎は「前近代とはこんなものだったのかもしれないという残映を、前近代によって進む道を阻まれた女の形をした近代=八重子より伝承する」というかなり屈折 した環境にあった、といふこと。それがあの玉三郎の華麗なようでいてどこか影があり、また成駒屋のような近代の解釈にもならぬ芝居となった、といふこと。 それゆえに玉三郎は歌舞伎をするよりも新派の芝居で八重子だの良重だのと一緒に女を演じる時のほうが活き活きとしている。女性がなぜ八重子を「きれい ねー」といふのかと理解できて溜飲下ル思ヒ。こういった世界にこそ文化あり、これ国家とも国を愛する心とも一切関係なきもの。国民教育を施しても残念なが ら八重子の芝居は理解できず。