富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十月二十三日(水)曇。朝、ホテルの食堂、ビュッフェの卵料理のコーナーにて初老の日本人、料理人に むかって自らの目を指さし「目玉、目玉」と日本語で宣い、それで通じぬと今度は指で輪をつくり目の前に翳す。せめてフライパンにて卵を割る様でもすればよ きものを。料理人、ヱイターを呼びその「目玉、目玉」の様を嘲笑。さらにこの秘本人のオジサン、連れと食堂の料理のそばのテーブルにて煙草をプカプカ。他 に誰も煙草吸う客などおらず煙立ち込め顰蹙なるも気がつかず。このオジサンと世界とのコミュニケーションの絶対的隔絶。今朝もまた日本人高校生おれば北京 テレビの朝の番組にてJTBが万里の長城の整備にと寄付金寄贈、と。そりゃそうであろう。朝、北京西站。香港まで三十時間の列車の旅。北京西站、世界で最 も巨大な站かしらん。「2000年の」北京オリンピック開催目指したはいいが97年だったかの開業当初は高さ七、八階分だかの吹抜けで天井のガラス落ちた り話題となった站舎。Z嬢と高包(二人用個室軟臥)。蓮實重彦小津安二郎』読む。一行で済むことを十四行語る蓮實の独特の言回しにこそ難儀すれど蓮實の 言う事のなかで大切なことは「小津安二郎が決して小津的なものにかさなりあうことがないように、日本もまた決して日本的なものにかさなりあうことはない」 といふこと。小津はまさに映画人として映画を撮っただけ。小津映画、日本では全く看たことなかりしものを香港にてこの十二年の間に香港にて戦前の作品では 『突貫小僧』に『生まれてはみたけれど』、戦後は『晩春』以降の殆ど全ての作品を観ていること。そのうえ来春の香港映画祭の特集は小津だそうで、それを聞 くと少なからず他に何か新機軸なきものか?と思うが、どうせやるのなら92年だったかの香港映画祭にて、山根貞男氏が執念にて発掘した『突貫小僧』が初放 映されたように例えば観衆すでに「小津的」なる印象に凝り固まっているのだから現存する最も古き『若き日』であるとか『大学は出たけれど』、『淑女と髭』 そして何よりも田中絹代の『非常線の女』あたり上映してもらいたいもの。小津的といへば周防監督の映画に小津的なエロ作品があったが、例えば「サザエさ ん」の磯野家でのあの物語をアニメのまま小津的にローアングルで捉え、波平「そんなもんだろう」サザエ「そうかしら」波平「そうだよ、そんなものだ」サザ エ「そんなの、私、いやだわ」と茶の間を出てゆくとか(ただし磯野家には小津作品で貴重な空間である「宙に浮いたような」(蓮實)二階がないのは欠点だ が)面白いかも。ただし問題は磯野家のあの家は、茶の間は縁側に向いておらず廊下からのローアングルで狙っても茶の間から小さいながらの庭先といふアング ルが得られぬこと。「腹をこわしているので食べ物を与えないでください」といふ札を背にかけたタラちゃん、胸に手をあて指で何か印を作ったら倒れなければ いけない符号をもつカツオとワカメ、ただ何もいわずそんな家族を眺めている東山千栄子ふうのフネ。いい世界だ。もしくは『太陽に吠えろ』とか刑事モノのド ラマの小津風。刑事部の部屋。壁に掛かった帽子とコート。鼻の脂を指にとり拳銃を磨く刑事たち。事件など何も起きず。ただ娘から縁談を断りたいという電話 を受ける警部。黄昏に新橋は烏森口あたりの割烹の小上がり。久々に旧制中学の同級生との酒盛り。「お電話です」という女将の声に一瞬、事件か、と思うが、 再婚相手を紹介してきた畏友からの返事催促の電話でしかない。ちょっと酔って横須賀線に乗ると、昼間、電話してきた娘とばったり……という刑事ドラマ。 97次特快列車は快適に南下続ける。最高速度135km/hほどにて曾て広州を23時すぎに出て翌々日の早朝に北京についた時代を思えば(というかその列 車もまだ現存するのだが)27時間余にて北京〜香港にて広州までなら24時間と六時間速いのは中国鉄路事情を思えば画期的なこと。どこまでも続く中原の平 野。ちょうど綿花の収穫の季節。山羊の放牧。線路に接して多くの製鉄だの製煉だのの国営工場の遺跡。広大なる敷地内に工場の他、宿舎、保育園などの施設。 工場の施設が錆びつき窓ガラスが全て割れ荒涼とした光景に、開放経済と中国の特色ある社会主義のもと収益性のなき国営工場は過去の「異物」と成り果てる。 そしてその綿花畑の向こうに突然バベル之塔の如く二十階建や三十階建ての高層ビルが建ち誇る。沿線の鄭州であるとか武漢であるとかの大都市の話ではなし。 名もなき郷鎮の国道沿いに、である。開放経済にて一獲千金にて当てた地方中小企業が「これぞ」とばかりに建てた歴史的遺物。鉄路にて大陸の京広線を縦断す るのはこれが三度目ながらいつも広州を夜に発って北京に向かうばかりで長江(揚子江)こそ夕陽の映える見事な様を観たものの、しかも85年は食堂車にて麦 酒を飲もうとした時にちょうどこの絶景に遭う。ただし鄭州はいつも夜中にて黄河を渡った実感はなし。今日は初めての南下にて陽が暮れかかった頃に鄭州の手 前にて黄河を渡る。長江に次ぐ大河といふ印象から広壮なる河想を像するが沼地のごとき流れともいえぬほどの浅き川筋がいくつかあるのみ。ただしその川筋の なかにできた泥島の土は一瞥しただけでも肥沃、ましてや河の河岸段丘にこの黄土の大地には珍しき樺茶色といふのか黒褐色の壌土が広がり、なるほど此処に文 明が生まれ商などの古代国家が誕生したのか、と思う。地理の教科書に黄河流域は土地が肥沃とあるが実際にその土壌を見て、而もそこ以外の土地は灌漑でもせ ぬかぎりとても作物など育たぬ荒涼とした乾いた平原が続くことを思えば、全てを納得、百聞は一見に如かず。鄭州の站にて党幹部なのか送迎のためホームにま で乗り入れる自動車。天皇陛下或は彼の国の大統領とてホームは歩むもの、それをたかだか田舎漢の地方都市の「幹部」のこの野暮なる様、否、田舎皇帝ゆえの 粗野か(飛行機嫌いで有名な北の将軍様は如何に?)。個室寝台にて老北京をちびりちびりとやりながら本に目を落し疲れては平原を眺めまたうたた寝、咽喉が 乾けば麦酒飲みと極楽至極。九生十蘭『魔都』読む。電脳は部屋に電源なく洗面室の髭剃用電源にて充電するがさすがに列車よりモバイルするほどの意欲もなし (笑)。 六時を過ぎればすっかり外は暮れ、原野のかなたに沈む太陽こそ何度か目にしたことあれど気がつくと暗闇のなか車窓のずっと下ほう、茶杯の高さの向こうに十 七夜の茜色の月。真っ暗ななか、その高さに月が彷徨い、闇の平原のなかを列車が走ることを実感す。餐車にて車窓より月を褒めつつ一酌。食堂車といへば曾て 国鉄黄金時代、昭和40年代までか特急といへば食堂車あり、よくすでに夜の列車に乗る前に食事は済ませているのに酒を飲みたい父に従い食堂車。特急こだま (新幹線のこだま号に非ず)のパーラーカーとまでは遡らずとも、まだ急行だった頃の「しなの」だったかにはダイニングの食堂車どころか寿司のカウンターな どあり、新幹線は食堂車が帝国ホテルか都ホテルのに乗りたさに一本遅らせたり……。種村氏だったか?食堂車に関する随筆で東北本線の花形特急ひばり号の食 堂車のことを書いており、それで氏曰く栃木路を走りながら蟹クリームコロッケだかを肴に飲む麦酒が秀逸とあり、余は東北新幹線開業間近に親の同伴ではなく 初めて独りでこのひばりに乗りまだ未成年の若造ながらそれを真似て一酌したことあり。その時の上京が武道館でオーレックスジャズフェスティバルだかあり、 ジャコがジャコパストリアスビックバンドにて来日せし時か、はたまたキースジャレットとチックコリアのピアノヂュオだったのかキースのピアノソロ即興か老 いて記憶も遠くなりにけり。夜の十時すぎに武漢(漢口)に着く。ホームには窓ガラス黒塗の高級車乗りつけられ制服組二、三十人おり二、三人の客人の送迎。 列車の時間まで酒樓にて接待盡くし。呆れるほどの階級社会。長江渡る。「滔々」といふ言葉あるが幅こそ1kmほどにてけして広汎ではないがこの河の湛える 水量たるもの、まさに滔々という言葉の意味を納得するもの也。