富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2002-10-21

十月二十一日(月)昨日の疲労もなし。昨晩から零度。北京飯店のロビーにはなかなか品のある日本人の 初老紳士多く何事かと思えば暮れに北京晩報読めば中日国交回復30周年で北京市対外友好協会が中日友好に貢献せし日本人50余名を表彰、と。その参加者と 察す。Z嬢と出街。建国門外の北京市旅游局にて明日のツアー参加予約。瑠璃廠。支那紙の便箋、色紙、玉忠なる書家の「行雲游水」という字の掛軸購う。和平 門まで出て全聚徳にて燒鴨。香港の燒鴨のほうがカラッとして個人的には好み。昼から麦酒どころか白酒酌み交わし名菜並べ頬張る人たち、とくにどーみてもカ ラオケ小姐昼間から呼んでの接待に興じるオジサンたちに敬服。地下鉄にてぐるりと市街を廻り積水潭。環状線の地下に降りる階段の臭い、地上よりの浅さ、古 めかしき仕様などどこか銀座線と相似。新外口の徐悲鴻記念館訪れるが月曜日にて休館。バスで安定門の雍和宮ラマ教寺院。参拝。歴史資料みれば、よーは 1951年の<關于和平解放西蔵辨法的協議>、この封建的チベットの人民のために中国政府がチベットを和平的に解放するためのチベット中央との協議とい ふ、実質的には武力侵攻以外の何ものでもないが、そのプロパガンダに基づく展示にて、つまりこの寺院とて北京中央の管理下にあるということ、資料館入れば 正面に毛沢東に「謁見」する若きダライラマ、パンチェンラマの写真。右に劉少奇、左に周恩来といふなかなか意味深な写真。資料の扱いでは何といっても亡命 とチベット独立活動などせず親北京貫いた9世パンチェンラマの扱いが14世ダライラマより格別にて(当然か)、14世については人民代表大会にも宗教界代 表にて政協会メンバーとして参加、北京のこの雍和宮にても加持祈祷、とそこまでしか説明せず。北京政府によるチベット平和解放のあとダライラマが印度に亡 命しその後チベット独立活動を続けノーベル平和賞まで授けられたことなど書くわけもなし。ここでもまた歴史が作られることを看る。パンチェンラマといえば 9世逝去のあとダライラマが見出した少年が北京政府に「保護」され現在まで身柄公開されず、それに対して北京政府が公認して指名した傀儡の10世、御年 12歳だそうだが江沢民、また殊の外李鵬に愛でられる様、醜悪。この10世とされた少年も今後この権力と対峙してか、もしくは権力の傀儡として人生を送る と思うと不憫なり。近くに位置する孔子廟参観。夕方になり陽も傾き風もあまり強からず北京飯店に戻るのに「歩こう」ということになり安定門より公道口、北 大街と胡同を彷徨。曾ては東単くらいであった商店街が、北大街も東四のあたりに来ると「巨大な田舎」北京にしてはかなりセンスのいいファッションや小物と いった店々が並び胡同がブティック街となり20年前との様変わりに驚きながら散策。単東の街路に監督が張元にて『江姐』なる映画の看板連なる。十六献礼作 品とあり、これって十六期全国人民代表大会のこと?と思い、いつから張元がそんな体制的になったのか、と。何か思惑ありげな予感。北京飯店に戻りタクシー にて先程歩いていた交道口まで戻り圓恩寺胡同にある友好賓館の割烹白雲。創価学会の経営といふ。ここは蒋介石が北京に駐在した折の官邸だった洋館にて横に 閑静なる四合院の建物あり、此処が何故か安静とした割烹となっている。十五夜の月。97年だか来京の折に畏友R君に連れてこられた店。品数も魚もそれほど ないが格別廉価にて寿司を供す店。ちなみに今晩は刺身120元、寿司二人前にて160元。場所が場所だけに今ほど日本料理屋も多くては静寂なる空間なが ら、曾て日本料理といえば北京飯店の五人百姓(京樽)か、それが高級すぎる客には新京飯店のレストラン(名前失念、都だったか?)しかなかった時代とは異 なり、交道口といふ此処まで赴く客も少なく、我らが着いた七時には座敷にて関係者らしき客一組のみにてテーブル席は電気消してあったほど。ふと思ったが五 人百姓なる店の名(今もあるが)、京樽の経営にしてはヘンな日本語であるが、これってまだ開放経済始まって間も無い中国の而も北京飯店に出来た日本料理屋 なわけで、この百姓はプロレタリアートを意味し、五人とは農民、林業水産、工人、公務員、革命軍人の無産階級5者を意味していたか?と想像する(そんなこ とないが、そうであるべきだ)。割烹白雲、刺身と寿司の値段に比べて日本酒熱燗一合が50元は高すぎ。食べたりず、とはいはぬが、どうせだからと王府井に 戻り灯市口の夜市にて坦々麺、新疆羊肉串、西米露食し北京飯店に戻る。連日、北京のアクセスポイントは混雑極まりアクセスできず。酒店のISDNのライン は香港など部屋にすべてデータが用意されているが此処ではIPアドレスなどサービスセンターにお尋ねください、と書かれており、電話で尋ねれば「今、人を 遣ります」と、確かに電話でよくわけのわからない説明されるより職員来てセッティングを扶けてくれるほうがマシかと思いつつ一向に職員現れず、ビジネスセ ンターで尋ねても拉致あかず。結局、香港に通話してアクセスしているのが現実。
▼米大リーグのワールドカップ、あの国威発揚の開会式、国歌独唱のなか先鋭の軍機が空を飛行する様、あれが イラクフセインによる国家経営と何が違うのか。
10月21日に雍和宮の資料館にて撮影した毛沢東に謁見する
若きダライラマ(右)、パンチェンラマ(左)の写真。
右に劉少奇、左に周恩来といふなかなか意味深な写真。
資料館館内写真撮影禁止とあったが
偶然にもこの写真は正面玄関入った正面にあり
館外より合法的に撮影(笑)。
10月19日に晩餐の前門・都一處の二樓に掲げられた
郭沫若が認めた店の名の一筆。
なんとも言葉に表現のしようなき
ただただ美しい書法。
天安門前広場の人民英雄記念碑。
手ブレを防ぐのに広場の消火栓だかの上に
カメラを固定していたら私服公安に不審者と思われた。
写真にも兵隊が映っていますが警備が厳重。
記念碑の右後方の照明は毛沢東記念堂。
人民英雄記念碑同様に照明に冴えた天安門
政治の装置として見事に利用されております。