富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

九月十三日(金)雨模様。ヨシモト『共同幻想論』読了す。巻末の中上健次による解題二三度読み直す。<性>が現実の行為から幻想の領域に昇華し対幻想として疏外された時に共同性を得てそれが更にタブーを露出させてそのタブーを強固なものにさせて共同幻想に至る、ということ。その<性>を何の臆面もなく白昼堂々と祭祀にした、その共同幻想こそ国家といふこと。中上健次が描いた吉野の路地の若者たちもまさにこの幻想の下に蠢いていた輩たち。中上健次曰く「一九六八年、丁度六〇年代末、この『共同幻想論』は街頭での人々による暴力の噴出と共に共同幻想としての国家を露出させ、来るべき事態を予告し」「この書物の出現は歴史的に言えばほどなく起る三島由紀夫の割腹自決と共に六〇年代から七〇年代初めにかけて最も大きな事件」であり「この事件を読み解くにはまったく新しい時間が要る」のであり全共闘から連合赤軍事件まで「割腹とこの書物が創出する地平を超えるものはなく」「ただ新たな事があるというのなら、それは風俗の新奇さのみである」と。ここで中上健次のいう「来るべき事態」がどう現われたのか、現われないのか、「新しい時間」はどうなのか……。ただ瞭然とせし事は「新たな事」が確かに「風俗の新奇さ」以外の何ものでもあらぬことばかり。吉本隆明のコムデギャルソン「事件」も風俗の新奇さ、だったか。