富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

九月九日(月)晴。電話で問合せHK Book Storeに "China Races" by Austin Coates (Oxford Univ. Press)在庫有るを知り肆に赴き購ふ。中国での競馬にまつわる歴史、つまり植民地主義と西欧の仕組みの移入に他ならないのだが、その歴史。晩にジム。ふと吉本隆明(よしもとたかあき)『共同幻想論』読み返し禁制論読む。廿年ぶりか。埴谷雄高との当時の吉本(なぜか全共闘の頃からよしもと「りゅうめい」と呼ばれていた)は論争しており、といふと戦後の日本思想界を代表する作家と思想家の論争で背筋が伸びるがよーするにヨシモトが女の子の雑誌『anan』に川久保玲のコムデギャルソンを着てモデルとして登場したのだ。それを埴谷雄高が当然非難した。しかし吉本はオシャレな服を着れることをよいこととしてそれに到る経済成長にも一定の評価をしたのだ。バブルにむかう、豊かな日本を享受する時代だった。バブルが崩壊した今日でもルイヴィトンの開店に並ぶ貪欲なる輩を見つにつけ吉本のいふ豊かな社会とは何なのかと思わざるを得ず。確かなことはコムデギャルソンを着たヨシモトが滑稽であったのに対して埴谷雄高の着流しのほうが格好いい、といふこと。つまりは埴谷雄高のいふとおり経済成長での成熟などマヤカシ以外の何ものでもなかった、といふことか。このあと吉本(りゅうめい)は原発論争や伊豆の海でのあわや溺死かといふ水難などあって、いつ頃からか読みは「よしもと」だが「ヨシモト」という感覚で呼ばれるようになり(つまり吉本興業との同化)どこか違う世界に逝ってしまつたのだが、今になって思うのは当時、70年代の全共闘からバブル期に吉本を読んだ私までいったいどれだけわかって読んでいたのか、といふこと。吉本を読んだといふことが当時の若者にとってそれは80年代にコムデギャルソンや山本譲二(じゃないよ、わかっている……それにしてもヨージヤマモトと間違ってジョージヤマモトのファッションで青山とか歩いていたら凄いことになるぞ)を着る感覚と同じだったかもしれない。老いて吉本読みようやく書かれていることの、それも片鱗が少しだけ読めた気がする。心の風土で禁忌が生まれる条件は二つあり、一つは個体が何らかの理由で入眠状態にあること、もう一つは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちに考えていること。共同幻想も同じような風土で生まれるわけでその生み手は貧弱な共同社会そのもの、と。これが書かれた卅年前から何か変わったのか知ら……。昨日T嬢よりいただいたサティのチョコレートぱくつく。
▼香港政府にて十数年廣播処(Broadcasting Dept)署長と公営の香港電台(RTHK)の代表であり香港の公務員の中でもその明晰ぶりと誠実さでは抜きんでた人材たる張敏儀女史は返還後ことに台湾報道や行政長官の執政批評などにつき北京政府と親北京勢力(徐四民など)より圧力かかるなかRTHKの中立と不偏不党姿勢を貫き言論の自由の堅持に努力を続けたが数年前香港政府は張敏儀を香港駐東京経済貿易代表部の首席代表といふ謂わば名誉職的な閑職に追いやり北京の横槍をかわす。ただし張敏儀は前任の首席代表に比べても有能であり港日の貿易交流に果たした役割は大でこの春その首席代表の交替にあたり張敏儀女史を惜しみその功績称賛される。香港に戻るが香港政府より退職。今後の身の振り方に関心集まる中暫くの休養を経て張敏儀女史は活動を開始、これまでの経験活かし『亜州週刊』誌にて日本首相小泉純一郎君との独占インタビューを獲ったが、大失態は小泉君にてこれほどの才覚と立場にある張敏儀女史に対してインタビューの最後にて「我喜歓和女性訪問員合作」(ボクは女性のインタビューだとついつい嬉しくって話しちゃうんだよなぁ、みたいな感じか)などと宣い、小泉君本人は場を和ませるつもりだったのか、但しかういふ発言じたいが女性蔑視となりそれを語る男性本人の認識の甘さと乏しき社会認識を暴露するやうなもの。今回のインタヴューはあくまで張敏儀のマスコミでの復活が企図されたものであり、その相手が小泉君となったのは「駐東京首席代表だったのだからせめて相手としては日本首相か」といふ理由で選考されたようなものだが、小泉君の本来その相手役を務めるだけでよかったものを思わぬ「失言」で話題は張敏儀のマスコミでの復活どころかもっぱら小泉君の失言に集まり小泉君ばかりか日本社会の「後進」性まで嗤われる。恥ずかしきものなり。