富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月二十一日(水)快晴。この夏ずっと香港から出ずにおりZ嬢と昼まえのフェリー乗船し終日マカオに遊ぶ。マカオに着けば思いっきりの快晴にて的士で一路路環の竹湾海岸へ。侘しさ漂ふ竹湾酒店(Pousada de Coloane)に一週間逗留したのが十年近く前にてそれ以来初めて竹湾を訪れるが竹湾酒店は更に朽ちて詫び寂(さび)といふより錆(さび)著し。海岸に面したLa Gondolaなるイタリア料理屋にて午餐。海岸には公営ながらリゾートホテルの如きプールあり。珠江の運ぶ黄泥ひろがる(言葉では言い表すことも絶す光景なり)マカオらしき海を眺め静か。路環の町まで海岸沿いを巡る道を炎天下数キロ歩く。この一帯はバブルの頃に別荘型住宅開発進み今ではほとんど空家にて朽ちた地中海型の住宅が並ぶ。HK$5,000ほどにて賃貸もあり静かな環境は理想的だがなにぶんにも朽ち果てたバブルの遺跡にて不気味。フランシスコザビエル教会の前だの周囲の民家だのがすっかり整備された路環の町。Lord Stow's Bakeryにて自家製ヨーグルト食しEgg Tartだの麺麭購いバスでマカオ市街に戻る。余りに陽射し厳しき午後にて旧市庁舎前の広場にてビール一飲して憩ひ裏通りに入り祥記にて水餃麺。港澳にて余が最も秀逸なる麺と推せるはこの祥記なり。骨董品の家具屋などひやかし散歩。晩餐にとAfonso �に赴くが日ごろ無愛想な店主ながら門前に店主と息子旅姿並びに南洋か地中海か美しき島と海の写真あり店主避暑のため九月中旬まで一ヶ月ちかく閉店!とは誠に敬服致候。Bela Vistaは閉まりこのAfonso �が休みでは晩餐にて路頭に迷いバスにてタイパ島へと渡る。明晩が満月にて路環の島の上空に浮かぶ月を海浜の公園より眺め、タイパの集落にあるGalo(公鶏つまり雄鶏)なる名前のポルトガル料理屋(それにしても何故にタイパの料理屋はピノキオだのダンボだのパンダだのの名前ばかりなのか)。識りもせず飛び込んだ料理屋ながらリゾットなどなかなか。ふとその店の二階の造りからこの店は10年ほど前は澳門にふと一件のみ存在していたモザンビーク料理屋だった建物じゃないか?と回想。竹湾酒店にZ嬢と逗留した折ここで生まれて初めて(そしてそれ以来皆無の)モ料理!を賞味した記憶あり。何故に澳門にモ料理かといへば言わずもがなポルトガルの植民地にてモ料理がではどういふ素材と味つけかといえば「海鮮を除いた」澳門のポ料理そのまま(笑)。澳門で馳名のアフリカンチキンなどそもそもモザンビーク由来かと思ふ。午餐、ヨーグルト、ビール、水餃麺に晩餐と我ながらよく食すものと唖然。二更に香港に戻る。フェリーにて矢野いろいろ事件もあり暢教授の『「南進」の系譜』(中公新書)読了。75年初版の「古典」ながら結びにて「東洋や西洋と台頭に並ぶ地域概念として「南洋」という概念はまだ対等の尊厳を与えられていない」「日本の南方関与の歴史はほとんど大した積極的財産を残してくれてはいない」「つまり底の浅い関わりしかしてこなかった」「だから日本と東南アジアとが自然に親密な関係をもてるはずだといえる根拠は全くない」「日本人は東南アジアあるいは日本と東南アジアとの過去の関わりについての知識を国民的常識としてはほとんど共有していない」「東南アジアを知るということがどういうことを意味するかさえ判っていないのではないか」という指摘は四半世紀を経た今も状況はほとんど変わっておらず。その上で矢野教授はその百年余に及ぶ南方関与のあと「いままた全く新しい出発点に立たされているわけで」この百年は「たいへん無駄な百年であったようである」と結語する。歴史を今日活かすことのできぬことはまさに日本の民族的特性か……。深夜月刊『東京人』読了。中学の時の同窓であるH君がよく取材記事を書いている。