富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月二十日(火)小雨。今週末にランニングクラブにて八月恒例の船遊びを企画しており某離島を目的地として七月に仮予約し昨日船代を全額旅行代理店(Ocean Leader Enterprises Ltd.傘下のPana Oceansなる組織)に払いこんだが七月に行き先は伝え船程の時間は?と尋ねると当日船頭に尋ねれば良しと言われ本日それでも何だから昨晩の入金の確認ともども代理店に電話するとその離島までは遠いので船は出せないと言われそれでは困るので出発地を新界の港としては?と打診するが船の停泊地が香港島のため新界まで船を動かせずと言われそれでは別な船脚を検討する故に予約を取消しを所望と打診したら先方は応じたが午後になり半額しか返金せぬと申し出ありそもそも七月の仮予約で目的地がその某島であることは伝えてあり其処に往けぬといふなら代理店側に非があり全額返金を要求するが応じず妥協できずTravel Industry Council of Hong Kongに対してこの理不尽なる代理店の対応を訴える。このTICHKはかういつた理不尽な代理店の収益活動について投訴できる機関ではあるがそもそも業界の権益保護団体のための成員である代理店に対してどこまで厳しい措置が取れるかは少なからずの疑問もあり。このTICが代理店の権益を庇護して消費者の訴えを蔑ろにした場合は何処に更に訴えればよいか。香港公務員ではその優秀なる専務ぶりではかなり評価高きAlice Tai女史がオンブズマン(ちなみに日本のオンブズマンについてはこちらが詳しいがだいたい日本政府じたいに公正なるオンブズマンが必要)を務める香港申訴専員公署はここは公共機構の監査取締りのためであり民間業界団体は範疇から外れるか。香港観光協会ならば公共機構であるからこの申訴専員公署に訴えられるのか、微妙なところ。晩黄にジム。帰宅して雑用多し。『大正博物館秘話』読了。書名のわりには明治のエピソード多し。明治の洋油画の祖・高橋由一が佛寺の栄螺堂にヒントを得て螺旋式で参観者が館内の展示を見て歩くうちに頂上の展望台に出る展示館を構想したり(これは澳門博物館などもとる形)、東京科学博物館で私も幼き折に父親に連れられて参観した時に身震いしたミイラが大正時代にメキシコ政府から寄贈されたもので震災で行方不明になり興行師の手で見世物としてあちこち巡回していたものが戦後になって東京科学博物館に治まった話、同じく科学博物館に展示されているキリンがこれが明治40年に独逸!のハンブルクにあるハーゲンベック動物園から購入した日本に初お目見えの麒麟の剥製であり、広島の原爆ドーム広島県物産陳列館であり、森鴎外陸軍省医務局長を退任し予備役となり帝室博物館総長となるのだが鴎外により歴史史料の時代別陳列がなされ(それまでは種目別)、青い目の人形や忠犬ハチ公の剥製などエピソードも興味深し。博物館のこういった物語の面白さは過去の話でありながらミイラにせよ麒麟にせよハチ公にせよそれを何十年も後にこの私らが子どもの頃にそれと遭遇し当時こそそれに纏る歴史などわかりもせぬが何か子ども心に鮮烈な印象を受けていること。
長野県知事選、朝日は早野透による「ポリティカにっぽん」のコラムにて8月15日の公示に田中康夫チャンは「日本の国民が知らされるべきを知らされないまま戦争を開始し遂には深い悲しみを味わった歴史の過ちを心に刻み込んだ終戦の記念日」に「県民に語りかけるのは歴史の偶然を超えたものがあると思うのです」と声明を出しこれに早野氏が「心惹かれた」と。そして対抗馬たる長谷川女史の街頭演説で14日に出馬を取りやめた花岡某が応援演説で「パフォーマンスと独善の田中康夫さんに退場してもらう大義の前に私は断腸の思いで引いた」というと聴衆から「しらじらしいぞ」とヤジが飛び早野氏はベテラン記者の花岡某なら「長谷川氏を巻き込まずに自分だけの責任で降りればよかった」のであり長谷川女史にしろ花岡某にしろ康夫チャンをポピュリズムと批判するがその車座集会の康夫チャンと県民との真摯な討論を早野氏は民主主義と感じ、選挙カーで自分でマイクを握る康夫チャンは人家が途絶えると「山の中の猪やカモシカの皆さーん、私が田中康夫です」と呼びかけた、と結ぶ。これって明かな康夫チャン支持でこういうのって公職選挙法にひっかからないの?(笑)
松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」が昨日の帝劇で69年の初演から通算千回の上映となる。同一俳優によるミュージカルの主演最多記録であり昨日は高麗屋の還暦の誕生日。高麗屋はミュージカル俳優でありながら歌舞伎までするのだから大したもの。
サンデーサイレンス(16)逝去。先月の競りにても新馬3億5000万円筆頭に高額七頭までがサンデーサイレンスの産駒にて日本の競馬馬はサンデーサイレンス系に淘汰されてしまうほどの勢いであったが衰弱性心不全のため死亡。89年にケンタッキーダービーなど米クラシック二冠、ブリーダーズカップクラシックも制し同年の米年度代表馬は翌年引退し91年社台グループによる25億円のシンジケートにより日本にて種牡馬となり九年間に産駒は海外と地方を含むG1を30勝、中央競馬では実に1,357勝、収得賞金の366億円余……。この春に右前脚が感染性腱鞘炎に罹り治療の甲斐なく血行障害により蹄が腐る蹄葉炎が左前脚に出た、と。蘋果日報の競馬新聞は人道毀滅と報じ、確かにこのサラブレッドにとっては不治の病である蹄葉炎と死因とされる衰弱性心不全に併発性はない気もするし、こういう書き方になるのは蹄葉炎の発病により人道的薬殺が決定されその結果を病名とすると衰弱性心不全といふことか、と察したりもできるが、この大種牡馬の最期を伝える新聞は「両前脚に痛みを伴いながらも先週までは自力で起立していたが、この日朝、馬房で体を横たえたまま起き上がる体力も気力も失っていた。午前11時ごろ、関係者が見守る中、眠るように息を引き取った」(日刊スポーツ)と。いずれにしても最低あと四、五年は種牡馬として現役であったろうし香港にもその産駒が購入されることも充分に考えられることだった。