富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月二十二日(木)快晴。引越の最中にこれまで行方知れずであった94年当時『香港ポスト』にて連載せし「香港在住日本人監察日記」並びに「香港在住ガイジン監察日記」と95年のキャセイパシフィック航空機内誌『Discovery』に連載の「香港交際術指南」のバックナンバーが見つかっておりそれをサイトにアップする。『Discovery』のうち95年8/9月号は私自身持っておらず、誰かバックナンバーあればコピー可であるので提供いただきたし。「香港在住日本人監察日記」と「香港在住ガイジン監察日記」一読すれば当時がいかに香港がバブルで且つ在港邦人も活気と勢いがあったかと納得。このような観察を今どき行えば非難轟々、ましてやこんな内容のものでいくら「写真と本文は関係ありません」と言っても誰も写真撮影など協力してくれまひ。ひとまずこれで一年と九ヶ月かかり富柏村の全著作がアップできたことになり肩の荷がおりた心境。黄昏てジム。銅鑼湾の何洪記にて筆頭メニューである牛南カレー飯を食す。牛南といっても筋肉を用いる店(尖沙咀の徳發や上環の九記など)とゼラチン質の牛肋を用いる店があり何洪記は後者にてきれいにこのゼラチン質を除けて食す客(つまり我)を店員は「牛南を頼んでおいて勿体ない」という表情で眺める。あのゼラチン質が口腔にねっとりと粘ついた、あの感じがいいという癪輩もいるが理解できず。ゼラチン質を除けたもののどうも食後感悪く恭和堂にて亀苓膏。かつて亀顔の老人が給仕していた頃に比べ内装かえ店員も若い女給となっていからどうも膏薬口に苦からず。
▼田中伸尚『日の丸・君が代の戦後史』を読む。元朝日新聞記者が岩波書店から出したといへば言わずもがな想像に難くなし。国旗国歌法制化は突然におきたものではなく戦後綿々と続く生理痛の如し。この『戦後史』の中で70年に群馬県前橋市の桂萱中で小作貞隆教諭によって君が代斉唱にて「三年一組はまわれ右!」が起きたことはそれまでの背景がきちんと説明され勉強になる。まず小作教諭が終戦間際兵役についており米軍の空襲をうけ兵舎で二人の同僚兵が死んだのだが、その瀕死の状態の兵に上官が君が代を歌えと命令し、その日が終戦の日八月十五日だったこと。この強制は上官=天皇の名代であるから逆らうことはできず。そして卒業式の予行演習にて校長が「三年一組の生徒の中に君が代を歌わなかった生徒がいる。君が代を歌わなければ全過程を修了したことにならないから、そういう生徒には卒業証書はやれない」と生徒に向って語っている。このような強制の中で生徒に君が代を歌わせたくない、というのが小作教諭の信条であった、と。いずれにせよ我おもふは、<君が代>は政治的、国家主義的にその賛否を問ふ以前の問題として日本語の美しき音韻を全く無視し歌を旋律に乗せてしまつており、あの「きいみいがあああよおおおわー」では古来の日本語の美しさが蔑ろにされてしまひ、それをなぜ右翼保守反動の諸君が問題とせぬのか不思議。本来、歌を詠む場合「きみがよわーちよにやちよにー、さざれいしのーいわをとなりてーこけのむすまでー」が正しい音律であり、「きいみいがあああよおおおわーちいよおおおにやあちいよおにいさあざあれえええいいしいのおおおいいわあおおとおなあありてえええこおけえのおおおむうすうううまあああでえ」は日本語として醜悪なる歌詠みであることを心得るべき。あの君が代の音韻を美しと思ふ輩は野暮なる田舎漢にすぎず。<日の丸>についてはこの『戦後史』にて注目に値するは1949年の元旦のマッカーサーによる年頭メッセージにて占領期のなかで日の丸無制限掲揚が認められるのだが、そのメッセージでマッカーサー曰く「余は茲に諸君に対し諸君の国旗を再び国内に於て無制限に使用し掲揚することを許可する。余が今回この挙に出た理由は一にこの国旗が人類の等しく探し求めてきた正義と自由の不易の観念に立脚した平和の象徴として常しえに世界の前に翻らんことを。(略)さらにまた(この国旗が)日本の政治的自由を確保し保全するに足る日本経済建設の義務に向って日本国民の一人一人を奮い立たせる輝く導きの光りとして翻らんことを心から念願するからに他ならない」。つまり(勿論背景には中国での国共内戦朝鮮戦争、対ソ戦略などによる日本の西側への取込みがあるのだが)このメッセージはまさに人類普遍の真理としての正義と自由と平和(これが日本国憲法の礎となるわけだが)を掲げる国家の象徴として日の丸が翻らんことを願うものであり、またその国家には政治的自由と「保全に足る」日本経済建設がある、と述べる。我おもふに<日の丸>の意匠はおそらくこれ以上の意匠の創造はほぼ無理であるほど優れている(かぎりなく簡素であり洗練されている点に於て)。しかしその<日の丸>の肯否を論議する以前の問題として、マッカーサーのメッセージを真摯に読めば、近隣諸国の歴史的反日感情をいまだ理解できず真の反省もないまま陳腐なるナショナリズムばかり高揚し自由は身勝手な私利私欲にばかり用いられ政府国会に正義など欠片もなき恥ずかしき様であっては、その国旗など<日の丸>に限らずとても恥ずかしく掲揚などできず、か。かりに日本なる国家が真にこの正義、自由、平和に邁進する国家であれば国民の総和としてであれ近隣諸国であれ日の丸をその象徴と認めるだろうに。似非なる保守反動右翼の諸君はこの日の丸の掲揚にばかり躍起になっているが、問題はその国旗に象徴される国家としてのConstitutionなるものが(それも普遍の理としての)その国家に備わっているのかどうか、といふこと。