富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月十五日(木)快晴。とびきり天気よいが少し風あり暑さ厳しからずPerthの夏の如し。月本さんの日記読み銀座のトリフジが一昨晩をもって閉店と知る。我が日記読み返せば昨年八月十一日に月本夫妻と「山の上」で天麩羅食したあと連れられいってもらったトリフジにて翌晩Z嬢と二人で再び訪れたもののお盆休みに入りまた帰京の折に是非と思っていた店にて閉店は誠に残念。実家の母に電話して岩波書店から出揃った荷風の断腸亭日剩全七巻の注文を頼む。現在読んでいる東都書房荷風日記は本人の検印ある貴重な本ではあるが生前の出版にて市川での最後の段なし。日本はお盆、終戦記念日。夕方ジム。佐敦呉松街の和味粥店にて及第粥。椎名仙草『大正博物館秘話』(論創社)読み始める。読み始めて途中になっている本がいったい何冊あるのかは我もよくわからず。この『大正』は大正の博物館の話が主題のはずが、博物館の成立ちの部分もかなり勉強になる記述多し。博物館が本来無料であってもいいものが有料になっている(博物館法なる法律)この由来はといへば江戸には木戸銭をとる見世物があるがこれと博物館は異なるもの、但し明治の博物館は博覧会がもととなっており幕末からの万国博覧会の見聞でそれが有料であり、博覧会から展開した博物館も有料となり(このへんが図書館=無料と同じ意味で研究場所としての大英博物館=無料とは異なる)、「見る」という行為に対しては一定の料金を課す方向となったこと。富柏村註……このへんをフーコー的に考えると博物館は実にエロチックな場所でありストリップ小屋との違いといえばそれが権力側から提供されるか自由なる肉体から発せられるかといふこと。また上野に博物館、美術館、動物園集まるは私は寛永寺が徳川家の菩提寺にて高尚なる場所でその周辺といった程度の認識であったが明治の初から貴重な資料を火災から守るために高燥した上野の山が選ばれたこと(寛永寺は維新の動乱で燃え跡地を利用)。収集品を展示するのにガラス棚が必要となったがガラス細工じたいは彌生時代からあり江戸時代には精巧な切子鉢など作られてはいたが板ガラスなるものは全く異なる製法にて明治の末まで日本では製作できず高価な輸入品で博物館経費の八分の一を板ガラス代が占めていたこと。板ガラスの製造成功は明治末の旭硝子により達成。(余がこの板硝子の重要性を納得したのは数年前の香港芸術館でのエジプト文明展(これは東京の国立博物館と同じ展示内容)でせっかくの至宝でありながら展示の板硝子の質が悪いために硝子で像が歪み照明がいたずらに反射しかなり不快な思いをしたことあり。)……などなど、せいぜい幕末のパリ万博、明治の勧工場の話が紹介されるだけかとタカをくくったらさにあらず、かなりタメニナル記述が続く本。まだ三分の一しか読んでないのだが。
▼香港の某掲示板に『香港通信』創刊号から最終号までをHK$30,000にて譲るといふ掲示あることをO君より知らされる。全92冊保管してありHK$30,000の資産ができたような気分(笑)。