富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月十四日(水)快晴。炒られるような陽射し。かつては凍えるほど冷房が効いていたMTRオフィスビルのロビーやショッピングセンターがちょっと温くはないか? とくにどんな汗もさっと引いた地下鉄MTRが最近は蒸している。冷房費制えて省エネならぬ省支出か。夕方ジム。荷風日剩(昭和九年)の続き読む。
▼香港の芸人・蘇永康君先月台北にて揺頭丸(Ecstasy)服薬にて捕まり二週間麻薬解毒のため収監されたものの服役中に所内の服役者を対象にした反毒キャンペーンのカラオケ大会で台湾副総統・呂秀蓮女史と歌い(呂秀蓮が若者に人気の蘇永康と一緒に歌うことで人気取りという非難あり)最低14日の収容が必須のところ10日余で、しかも所内にベンツ乗り入れしシャバに出るという特例続き。芸人を特別扱いするこれを見るにつけ法治が進んでいるはずの台湾もかなり問題あり。
▼13日の朝日に憲法学の樋口陽一教授「日本の「近代」としての戦後」なる一文を寄せる。平易な日本語でありながら樋口教授の独特の言い回しもあり実は深く難解。「近代」を中世と対比させ「『魔術』からの解放が技術文明の領分だけでなく、人びとの暮らしの行方にまで、少なくとも建前として届くようになった時期、といっておこう」という、この近代は中世=魔術からの解放という観念、これは余りに近代主義者らしいステレオタイプな中世の見方で私は賛同できない。が、さすが「近代」を体言したような御仁ゆえその説は拝聴に値する。以下要旨。「近代」の国家とは「一人ひとりの個人が契約をとり結んで作ったものというフィクション(社会契約論)で説明されてきた「はず」であり、いま押し出されている「国家」はそういう近代「国民」国家ではなく「民族という血筋で結びついた自然集団が、いわば国家を人質にとろうとしている」ものである、と言う。そして憲法論はこれまで「近代国民国家を前提として、その上で成り立つ国民の自己決定(国民主権)と、一人ひとりの自己決定(人権)とを骨組みとして議論を組み立ててきた」もので「『近代』は、国家を、もともとあるものとしてではく、約束ごとによって作られたものと考え」「国家は、その存続自体に値打ちがあるのではなく、約束した目的を外れていないか、問われつづける立場にあるはず」で、宗教やおカネや民族といったものを「人びとの意志の力でそれらをコントロールする公共社会の単位がなくなってよいはずはない」からその単位を「『近代』は国家と呼んできた」と。その「近代」国家が疑われ始めているのであり「その根っこには、『普遍』の価値を標榜してきた『近代』ヒューマニズムに対抗する、文化単位の個別性の主張」がある。(日本国憲法というのはまさにこの近代国家の普遍性に則った憲法であり、だからこそ懐疑の目が今向けられているわけだが……富柏村注)樋口教授は「『近代』批判を可能にするものこそが『近代』であり、それを手放すわけにはゆかぬと考える立場は(樋口教授自身を含め)『近代』を擁護する」のであり、この近代を信じる者と疑う者の「相互の『対話』は、既成の体系を多かれ少なかれ揺るがすだろう」が「揺れゆけど沈まず」という言葉もあり樋口教授は<近代>がどんなに打たれようとけして毀れないことに期待をかけている。(引用ここまで)。私もこの近代に生を受け近代の自由を今日まで享受してきた者として近代を擁護せむ。しかし現実の世界を見てみれば、日本はさておいても少なくてもアメリカ合州国なる国は英仏のこの近代の自由主義を礎にまさに社会契約として建設された国家であるはずなのだが(中華人民共和国とて共産主義の理想でいえば然り)現実にはその近代国家が幻想のようなナショナリズムを強固なものとして世界に君臨している。日本はといへば寧ろ大日本帝国のほうが天皇制といふものを実に上手く利用して(天皇機関説の述べる体系)国家を経営し国民にも非常に自立意志が強かったかもしれぬ。戦後の日本はこの近代国家の普遍性としての理念を憲法に掲げながらも実はまったくその国家体系を会得せぬまま、具体的には、国家というものが自らが経営する機構にすぎぬはずが国家=日本が崇高なる象徴となりそれに対する漠然とした愛着やそれを翳すことでその内に自らが属すことでの癒しなどを含みつつ今日に到っていると言わざるを得ず。
▼同じく13日(長野県知事選挙公示前日!)の朝日に橋爪大三郎氏による田中康夫チャンが本来の「公共」のために民主主義の手続きをとってきたことへのかなり賛同した論説が載る。これの掲載が公示後では特定候補への支持に繋がる選挙違反(笑)。康夫チャンの手法が独善的で稚拙でファシズムだと県議会が反発してもその独善が車座集会などでの県民の声を集約したものであるとすると、どちらが正論かは明白。この長野の康夫チャンの地方「自治」こそ手腕は稚拙かもしれぬが長野県なる自治体を本来の県民が受益者として公益を享受できる体系にするといふ実験であり、前述した近代と国家の関係でいえば、この実験は県=県政=県議会のオジサンたちの力その存続自体に値打ちがあるのではないといふことを明確にして県政が本来の地方自治の約束した目的に外れていないかどうかを問うている、といふことになる。