富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月十二日(月)快晴。風邪治りかけるが鼻孔敏感にてクシャミ止まらず節々傷み手足に悪寒ありC医師を訪れる。向田邦子『あうん』読了。ちょっとした言葉に今でもありそうで懐かしい東京の言葉。「蚊が出ている」最近は蚊が「いる」とはいうが夕方になると何処からともなく「出る」がいい。そうそう、預金通帳を「通い」と云う。風呂は湯、味噌汁はおみよつけ。日本橋で生まれ四谷で暮らしていた祖母の口調を彷彿する。早く寝なさいという命令形としての母が娘にいう「おやすみ」もいいなぁ。年譜を見て昭和45年の頃のTBSヤング720のいくつかが若き向田邦子の脚本だったと知る。はっきりドラマとして覚えているのは昭和45年の「だいこんの花」からか。「時間ですよ」は女湯の場面で裸が見えると当時の小学生の間ではかなりの評判だったが向田邦子久世光彦という名をはっきり認識したのは「寺内勘太郎一家」から。今回年譜で初めて石立鉄雄&杉田かおるの「パパと呼ばないで」が向田邦子だと知る。ドラマでは脚本家として知っていた向田邦子を活字で初めて読んだのが、祖母や母が買い物のついでにもらってくるのを読むのが楽しみだった『銀座百点』の隔月の連載、それが昭和51年。昭和40年からの、お茶の間がとても楽しい空間であった時代、夕食が終わりお茶を煎れたりアイスクリーム食べたりしながら家族みんながテレビの前に集まりワイワイと。昭和56年、向田邦子が台湾で航空事故で亡くなった年はそういう時代の終焉でもあった。ウォークマンが出てテレビ番組は細分化され家族で見る番組はなくなりテレビは各室へと。台湾は向田邦子が書いてきた家族の、みんなが一緒に笑い泣いてのそういう空気がまだあった場所であるから、もし向田邦子がこの事故に遭わなかったら台湾を舞台に家族の物語を書いていたのかもしれない。灼けつくような陽射と濃い青空。夕方ジム。強烈なる西陽でトレーニングルーム全体が濃いオレンジ色に染まる。これが夏だろうに。それがじつに久々のこと。