富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月二日(金)晴。Mt Parker Rdを上り大譚に下れば春から雨季なれど雨降らず貯水量大幅に下がっていたはずのいずれのダムも先週來の雨続きで満載、碧色の水を湛える。平日で行脚する人もおらずダムに沿って小走り。大譚中水塘から浅水湾峠に抜ける小径は整備されすぎた香港島の經の中では未整備にて心地よし。海岸で網野善彦『中世再考』(講談社学術文庫)読む。網野氏の80年代始めまでの短い論文、公演録などをまとめたものにて当時アナール学派が日本で脚光を浴び網野社会史が朝日ジャーナルなどで取上げられ注目され始めた時代を思い返す。あの頃、網野論文読み中上健次読むと中世から現代がつながってしまうのだった。今ではどの時代にも社会には諸相あり中世にも権力とそれから逸した外道、漂流民、自由民がいたわけで、暗黒の中世、アジア的停滞と農奴制などとは誰も思わぬわけで、わずか20年余でここまで社会観は変わるものかと感慨深し。バスで赤柱経由して肖箕湾。肖箕湾道の桃園麺家にて墨丸河。この店の墨丸(烏賊擂り身団子)は美味。一旦帰宅してジム。美孚にて藪用済ませ餃子妹にて雪菜肉絲水餃麺。この店の餃子は美孚などに置いておくには勿体なき味。バスに長く乗り『中世再考』読了。
▼孫引きとなるが網野善彦が紹介している宮本常一の自叙伝『民俗学の旅』の一節。
私は長い間歩きつづけて来た。そして多くの人にあい、多くのものを見て来た。(略)その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか。発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。(略)進歩に対する迷信が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向わしめつつあるのではないかと思うことがある。進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられている、もっとも重要な課題ではないかと思う。