富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月三日(土)雨。Broadband通じず朝よりPCCW人を遣るを待ち晝。階下にて断線!していること判り即修理。生命維持装置繋がったが如き気分なり。修理員かなりの肥満にて机下に潜るも辛きほど、不憫。晝にPasta con Natto Japonese食す。ジム。ウェイトを1kg重くしたところで筋力への負担といふものはほとんど変わらず、寧ろ1kg軽き時にはそれをいくら繰り返しても増強されぬ筋力の日常限界といふものがあり、1kg重くなったことでその未知の筋力が目覚め活躍することがわかる……などと書くと三島先生ようだ、止めよう。尖沙咀Swindon書店にてJames Joyce "Ulysses" 購う。当然のことながらこの英文(そして多くの言語の洪水)を読みこなす英語力などないが深刻なる問題は丸谷才一他訳の『ユリシーズ』(集英社)を読んでも言葉は理解できるが物語として理解できなかったこと。原書と邦訳の併読が必要と思った次第。
▼先週よりCable TVの報道台にて三十分毎の番組にて八一が中国人民解放軍設立の記念日か何かで特に今年は75周年に当るらしく解放軍の成果を讚える提灯報道を三十分の報道番組の中で必ず一回流すこと続く。八一が過ぎれば終わるかと思えばまだ続く。CNNは映るがBCCは映らず。偶然のことか、中国では政府当局がBCCの報道姿勢めぐり中国での放映許可せぬ状態続いている筈でその余波か、とも察す。
▼紙幣の肖像に五千円が樋口一葉、千円が野口英世。福澤、新渡戸、漱石の札が出てすでに20年とは月日流れる速さ。それにしても、である、確かに新渡戸より一葉のほうが知名度あろうが一葉日記読めば貧困にてあれだけ金銭に苦労に苦労を重ね逼迫した生活の中で名作を残し酬われぬまま夭逝した一葉がわかるわけで、その一葉紙幣の顔にするとは……たんに文化で功績のあった女性、という発想か。一葉がこの紙幣での自らの姿の登場を喜ぶとは全く思えぬ。役人の下種な決定なり。
一葉日記「みづの上」明治20年2月の有名なる一節をここに掲げる。
しばし文机に頬づえつきておもへば、誠にわれは女成りけるものを、何事のおもひありとて、そはなすべき事かは。われに風月のおもひ有やいなやをしらず。塵の世をすてゝ、深山にはしらんこゝろあるにもあらず。さるを、厭世家とゆびさす人あり。そは何のゆゑならん。はかなき草紙にすみつけて世に出せば、「当代の秀逸」などと有ふれたる言の葉にをならべて、明日はそしらん口の端に、うやうやしきほめ詞など、あな侘しからずや。かゝる界に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といへるもなく、我れをしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生れし心地ぞする。我れは女なり。いかにおもへることありとも、よは世に行ふべき事か、あらぬか。
……という日記の一節を、この一葉の紙幣登場を画策した輩は理解できるまで何度も読み返すべし。
野口英世も進学の余裕すらなき貧困なる農家の生まれ。何故にその紙幣を得るために血が滲むような苦労した先達ばかりを選ぶか。いっそのこと澁澤榮一であるとか適役ではないか。景気回復を期待するなら奇想天外なる織田信長とか(朝鮮侵略の秀吉はマヅい)文化人でも一流の投資家であった永井荷風ならよかろう。またまだ存命ではあるが資本主義にモノ申す経済学者宇澤弘文なども紙幣の肖像には適した様相と思う。紙幣の意匠を替えることよりもっと他にすべき事あらぬか、日本経済。今回の意匠替えにて偽札偽造防止が更に厳しくなるといふが偽造されても流通するが紙幣価値なり。
が、この登用の決定より更に驚くの朝日新聞天声人語の語り。
新しいお札の顔に決まった2人に共通するのは「貧しかった」ということだ。東北の農村で赤貧の幼少時代を過ごした野口英世はもちろんだが、いわゆる没落士族の娘の樋口一葉も生涯を通してお金の苦労が絶えなかった。また2人に共通するのは、借金の多さである。かなりずうずうしいところも似ている。しょうゆ代も払えないような一葉は金策に走る。面識のない人にまで借金を申し込む。しかし貸してくれないと「誰もたれもいひがひなき人々かな」と日記に愚痴を記す。野口も友人や親類に無心をし、さっさとつかってしまうと、また次を頼む。返すあてのない借金を繰り返した。と、こう記すとお札の顔にどうだろうかと思わせる2人だが、お金に苦労しながらそれを超越しているようなところが2人にはあった。「文学は糊口の為になすべき物ならず」、お金に左右されないで思いのままに書くべきだ、という一葉の有名な宣言は、彼女の文学への決意を示す。(略)2人の業績についてはいうまでもないし、女性と科学者ということで採用されたのであろう。しかしお金をめぐる2人の人生を見ていくと、お金は出たり入ったりするもので、貧しくてもくよくよしない。そんな読みもできそうだ。(略)
……どうであろうか。これを書いた輩は見識に欠ける。一葉も英世も貧乏なのである。放蕩を重ね無駄金を無心しているのではない。醤油代も払えない一葉の「誰も……」は愚痴ではなく嘆きなのがわからぬか。「さっさとつかってしまう」も飲む打つ買うではなく生活のための米味噌であり研究のための学術書の購入をよくも「さっさとつかってしまう」などという表現で済ませられるもの。また「文学は……」も何が「お金に左右されないで思いのままに書くべき」であろうか。余裕があればそういうことも言えようが一葉はいくら貧乏でも日銭のための売文はせぬという崇高なる決意。実際の生活はお金のことでどれだけ苦しく右往左往せられたか、「お金に左右されない」どころじゃない。二人にとって「金は天下のまわりもの」なのではなく、金は天下そのものでそれがないが為に苦労の連続。「お金は出たり入ったりするもので、貧しくてもくよくよしない」と天声人語は言うが最も深刻なことはこの二人にとって「お金は出るばかりで入ってこない」ものだったのだ。「貧しくてもくよくよしない」どころか一葉や英世がどれだけ貧しいことに悩み苦しんだことか。「そんな読みもできそうだ」って、そんなノーテンキな読み方ができるのはアンタだけだよ!。南無阿弥。