富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

六月十五日(土)晴。端午節。H氏交えZ嬢と某所にて某打合わせ。終わって灣仔。Q麥にて四川辣粉と紅油抄手。利東街の靠得住にて端午節の粽を購わんと参るが当然の如く売り切れにて甜味の粽のみ、一つ購う。春園街の金鳳にて牛乳紅茶。濃厚な味が欠けぬよう氷入れず冷蔵庫で味が褪めぬ程度に冷し砂糖も紅茶の渋さをほんの少し消す程度に押さえた見事なる紅茶。トラムで中環、粽は庸記も売り切れ。一旦帰宅して居間のソファ購うため擺花街のAlminium、ソファは二カ月待ちで支払い済ませる。Z嬢がWellington街の華豐焼臘なら粽あるのでは?と粽に凄まじき執念みせ(笑)華豐に僅かに残った鹹肉の粽をゲットす。粽を得られたので粗呆区のbocaなるバーにて祝杯。
▼『東京人』七月号の歌舞伎特集、勘九郎丸谷才一の対談、昨夏の野田版・研辰の討たれの話題となり研辰を讃める丸谷が見に行った日に初日(昨年八月十二日の日記参照のこと)にあったカーテンコールがなかったことを不満というと中村屋「初日の晩の拍手はすごかったから」と。そりゃそうである。中村屋の女将さんが一階席の中央で涙流しながら誰よりも派手に拍手しいていたのだから(笑)。丸谷先生曰く「研辰が殺されて枯葉が一枚ヒラヒラと落ちてきて幕……というのではあまりに寂しい終わり方」であり「幕が切れない」と。御意。しかし丸谷先生続けて「あれはカーテンコールがあってこそ完結する」と。そうだろうか。幕が切れないのは脚本(ほん)が悪いから。「つまりカーテンコールなしでも行けるような他の演出を考えるか、必ずカーテンコールをつけるのかどっちかなんだね」とご高説だがカーテンコールをつければ成り立つような芝居ではつまらない。つまり演出の問題。同じ特集にて福助も「生まれて初めてスタンディングオベーションするような、歌舞伎座のお客さんが立ち上がって拍手してくれて嬉しかった」と。私はこの晩、二階の東の桟敷席で見ていたから丁度目に入ったのだがこの歌舞伎界初のスタンディングオベーションも最初に立ち上がったのは間違いなく中村屋の女将さん。一階席の所謂トチリの真ん中、だ、しかも。別に身内だから興奮していけないとはいわないが(……言ってるか)騎手の妻がゴール前で競馬新聞振り回しながら夫に歓声は送らず婚約発表後に倍賞美津子アントニオ猪木の試合を見ていたのもかなり奥まった席でひっそりと、だといふこと。不思議なのはこの野田版・研辰程度(私にはあの演出が「そこまで」面白いとは到底思えず)がこうして一年経っても話題になるほど歌舞伎全体がつまらないものになってしまっている、といふこと。中村屋と丸谷先生が指摘している通り「石切梶原」や儀式ばかりの「曽我の対面」ばかりやっていてはどうしもなく福助も言うように高校生に歌舞伎教室で「石切梶原」を見せるのが「やっぱり歌舞伎はつまらない」と思わせているようなもの。丸谷先生が井上ひさしの『雨』を歌舞伎にしたら面白いというのは確かにそうだし、中村屋井上ひさしの『手鎖心中』の再演、『薮原検校』の歌舞伎上演など多いにすべき。中村屋の『薮原検校』が地人会のそれより上出来かどうか期待。来年は野田版・鼠小僧があることを中村屋がこの対談で口を滑らせたが、平成中村座コクーン歌舞伎くらいが私には趣味があうようであんまり演出を奇抜にすることは私の肌には合わず。