富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

六月二日(日)昨晩子刻に雷雨。金本安民『異常愛・ギリシア神話』(東邦出版)半分ほど読む。ギリシアの物語読めば夜な夜な想像ほとばしることは、アドニスといへば三島由紀夫が匿名で『愛の処刑』を掲載せし戦後の同人誌の名前の由来、不二家ネクターギリシアの神々の飲料ネクタルに由来し、村上龍の『コインロッカーベイビーズ』に出てくるアネモネなる、花の名前の少女がいかに美しいか、などなど。飢えから自らの身体を喰うエリュシクトンの話はキョービのどんなホラーより恐ろしく、牛頭人身の怪物ミノタウロスは王妃パシパエが海神ポセイドンの怒りゆえに呪いかけられ牡牛と獣姦の結果生まれたことを初めて知り(小学生の読み物にはここまでの記述なし!)、ヒヤシンスがアポロンと遊ぶ美少年ヒュアキントスへのゼヒュロスの嫉妬にてヒュ少年の額が割られそこからあふれる鮮血から咲いた花という由来、話術も巧みな森の精霊エコーがゼウスの呪いで相手の言葉を繰り返すだけしかできななくなりそれがエコーなる語の語源であるとか、ナルシス神話は有名だが水仙の花が首を深く擡げるのは水面に写る自分の姿に見とれているからだとか、ウルトラマンガイアのガイアが地母神であるとか、真に様々なことが勉強になる。これだから古典は楽し。一睡すれば曇。日曜朝から新聞読めば朝日に「ッタマに来るんだよ!」の如き事象多く日剩綴る。昼通しでジムにてBodypumpとBodycombat。HMWでフルトベングラーの1951年の録音でバイロイト祝祭管弦楽団の演奏でBeethovenの第九購い帰宅して聴く。昨日の鈴木淳史『クラッシク批評こてんぱん』にて名盤で(当然だが)ネタになっていた音源にて、さういへば小学生の時に確か稲葉君の家だったかで聴いた覚えあり数十年も前のこと。ふと聴き返したくなったが、三楽章までは荘厳に且つ抑揚豊かに歌い上げるが突然乱れて始まる最終楽章はとんでもない速さで弦の音がついていかず録音も悪いから全く聞こえないほどで、でもやはりこれは凄い実演録音だ。実演とはこうぢゃなくちゃ。1951年に戦後6年目でバイロイト音楽祭が復活し、その初日に演奏されたのがこの第九だ。もうそれだけで凄いことだがそれをフ氏がバ祝でこれを演ってしまったのだ。指揮者も演奏者も聴衆も「悲しくも我らは独逸人でありそれを嬉しく思えむ日よ再び」という、そういう感情がこの演奏に集結されている。ここに独逸の戦後のConstitutionなるものがすでに体言されているのだ。そこが第九をたんに年末のお浄めに使ってしまふ生半可な日本とは違う。第九といえばすでに不治の病に冒されていたバーンスタイン先生がウィーンフィルを振ったベルリンの壁崩壊記念のライブも(あれは世田谷久ケ原の新井君から贈られたCDだった)あれも良かったが、第九を聴くということはちょうどジャズでMiles DavisのKind of Blueを聴く、新潮文庫で大宰の『人間失格』を読むようで「初心者です」みたいで恥ずかしさが伴い、やはりショスタコービッチを聴いてるとかならいいんが第九は聴く機会もないのだが、やはり凄い曲だと、そしてそれが独逸人にとってそういう歓喜の時に演奏されると最早神々の世界に逝ってしまっているのだと痛感す。第九といえばデュトワ率いるN響がソウルで韓国の合唱団入れて第九とか。でも独逸人の歓喜に比べるとW杯での日韓親善はまだまだ弱いか。安田記念は七番人気のアドマイヤコージンが優勝。いやこれは後藤浩輝騎手の優勝と言ふべきか。後藤君先月だかの『優駿』の対談に出ておりなんか不思議な騎手だと思っていたがG1に54度目の挑戦にて優勝し馬上で号泣しスタンドのファンに向かってヘルメットを取って頭を下げた、と(日スポ)。見たかったなぁ。見たらもらい泣き必至。でも騎手では買えず。一番人気エイシンプレストンは五着×。結局二番人気まで賭率上ったゼンノエルシドはドン尻あたり。香港馬二頭も入賞せず。今晩は仏蘭西ダービーだ、楽しみ。武豊様の日仏ダービー制覇とか?。日曜の黄昏になぜピンクフロイドが聴きたくなるのか。確か中学生の時にピンフロを初めて聴いたのが週末の夕方、多田君の家だったからか。Z嬢が枝豆茹でたので野菜ジュース飲みつつW杯イングランドスウェーデンの試合観戦するがサッカーに余り興味なく埼玉の会場のバーナー広告みていたら世界に中継される由かなり広告料も高いのだろうが敢えてローマ字使わぬ広告はかつて野村インターとして世界を制覇したかのようだったがすっかり萎んだ野村証券、やはり日本だけが相手の東京海上火災、それに当たり前だが東京電力の三社は漢字広告のみ、それは理解できるのだが今や世界食となっているはずの日清食品カップヌードルがカタカナ広告だったのは興味深き事実。すでにあのカタカナ表記でも世界中でカップヌードルと理解されるほどの知名度なのか。夜引き続き『異常愛・ギリシア神話』、読了。
▼W杯イングランド隊の碧威(ベッワイと読めるがこれが英語、カタカナ書きでなんと云うか余は知らず)二カ月近く前に欧州冠軍球會盃にて負傷し戦列より離れていたものが本日英国宿敵瑞典との一戦にてこの碧威君復帰にて香港はこの一戦にHK$10億が賭けられその四割はこの碧威に起因する、と蘋果日報。ちなみに賭けはこの碧威がゴール(3.5倍)、フリーキック(6倍)スキンヘッドにて参戦(8倍)、左足でのゴール(17倍)、ヘッディングでのゴール(26倍)、頭髪をユニオンジャックに染色(34倍)、ハットトリック(81倍)、監督と対立し離隊返国(201倍)と様々あり。明日は日本にて新聞休刊日のところW杯あり通常通りの発行、言葉もなし。
コロンビア大学により張学良の口述記録が近く公開される、と朝日新聞。張学良が昨年百歳の長寿を全うし誕生日である六月一日を以て遺族が公開を認めた、と。西安事件に関しての貴重な資料ではあるが此処でも気になるのは周恩来の存在。蒋介石を軟禁し周恩来の調停で国共合作の契機を作ったが南京に向う蒋介石に従えば拘束されることがわかっていながら同行し、それでも殺されずにきたのは周恩来のおかげであり感謝しているが、周恩来という人間の本当の姿については張学良が語っているとは思えず。先週読んだ『十九歳の日記』でもそうであるが周恩来は本来の姿を頑なに隠し通している。
▼朝日の「声」欄の投書で茨城県ひたちなか市の73歳の男性曰く、地元の文章講座に通い投稿文の書き方を学びそれを実践せむと朝日新聞茨城県版に二つ投稿が載ったところ、一つは産経の「新しい歴史教科書」の採用率の低さを国民の良識の表れとしたところ、この文章講座の講師に「右翼が押しかけてくるから以後このような投稿は避けるように」と言われ、もう一つは茨城県民の歌に「世紀をひらく原子の火」と歌いあげるのが臨界事故などあり恥ずかしくないかと書いたら「原子力施設で働く人にはむかつく表現だ」と言われた、と。昭和の始めの「特高が来る」「お国のために働く兵隊さんに不敬だ」というのと同じ講師の発想。お国を滅ぼすのは小泉でも石原でもなく、こういった一木一草に宿るが如き市井のイノセントな「おもひやり」。それを基盤に小泉君が自らへの支持と誤解し国家瓦解してゆく。
▼メディア論を始めてからのここ十年以上嫌いだったがヨシモト(隆明のほうである)が首相小泉君を「ナショナリストのように見せかけているくせに国家間の近代以降のふるまいをまるで知らない」(そりゃそうだ、バカなんだから……笑)わけで「小泉内閣はとうとう半世紀前の自民党内閣にまで退化してしまった」と言う。ヨシモト先生の物言いにも政治は進化するという思想が見え隠れしてるし、これでは半世紀前の三木武吉大野伴睦緒方竹虎といった先達たちを小泉君と同格にしては大変失礼であろう。だがヨシモト先生を見直したのは「戦争を知らない戦後生まれの幸運な国民が日本の大部分を占めるようになった現在、それを幸運の極みだと思わないで、『有事』などという曖昧な言葉で、戦争状態や戦闘状態を空想し始め」「何の訳にもたたないそんな架空の議論よりも現在の平和を胸いっぱいに享受したほうがいいと思う」し「そんな話題は予め議論しても無効」で「『有事』が目前にきたら勇ましいものも臆病なのも沈黙してしまう」し「架空の政治的な遊びである『有事法制関連法案』も『個人情報保護法案』も吹っ飛んでしまうに決まっている」と。御意。平和だから出来る小泉君の改革という名の玩遊とそれにつきあう国民の愚かさなり。小泉君などかつて変人と云われ誰にも相手にされず昼から歌舞伎座で芝居見物していたが、あれでよかったのに。
▼豪州在住の作家・森巣博氏曰く、凶悪犯罪の犯行が中国人であっただけで石原慎太郎君が「こうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく」「将来の日本社会に禍根を残さぬためにも我々は今こそ自力で迫りくるものの排除に努める以外ありはしまい」と「産経新聞で」危惧することに、この明瞭な人種論をもつ者が都知事に選ばれ石原新党まで期待されてもいるのだが、森巣氏が疑問に思うことはマスコミは仏蘭西のルペン君やオーストリアのハイダー君にはいとも簡単に「極右」なる形容をするくせに何故にこのルペン君やハイダー君すら言わぬこのナチスを彷彿させるDNA人種論を説く石原君には「極右」の形容をせぬのか、と。全く同感。石原君が悪いのではない。ああいう輩は存在する。ただそれを都知事に選び改革をどこか期待するマスコミがある。結局、石原を支持した者というのはシナ人蔑視など全く考慮しておらぬわけで、ただ、上述の茨城県ひたちなか市の文章講座の講師の如き<市民>が創造力も実行力もなき政治家が跋扈する中ではっきりモノを言いモノを見せようとする石原に共感している。非常に低レベルのそういう構造。