富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月十五日(金)晴。金鐘にて銀行藪用済ませZ嬢とマカオに遊ぼうとMTRにて上環に向うと日頃銅鑼湾からの地下鉄は金鐘にて乗客多く乗換えがため降車するはずが中環でもまだ降車する客少なく終点上環まで空いているはずの車内の客数余多にて「まさか彼らが全て澳門へ遊ぶか」と冗談を言っていれば上環にて降車した者ども皆澳門フェリー埠頭の方へと進み混雑。埠頭ターミナルに上るエスカレータも人込極まりなく11時頃のフェリーに乗るつもりが13時すぎまでフェリー満席。平日なれど旧正月三が日と週末の間の金曜日にて澳門に遊ぶ人多し。澳門に遊ぶを断念したものの遊び心が取り消されるもつまらぬもので気分転換にSabatiniでお昼と決める。海底隧道潜るバスに乗れば車内にて鶏腿肉だの揚物だの食すキチガイな男女一組おり大変迷惑、周囲の迷惑を全く省みず大口開けて間抜けな面にて餌を喰う姿は悲しき。百年ぶりのSabatiniのランチはHK$150から240にてAntipastiは選取見取、パスタは定評ある料理屋にてメインを食すか食さぬかは客の食欲次第、デザートも選取見取。お食事はかなりお値打ちだがハウスワインですらPomino Benefitio'98とするのは一流の料理屋としての威厳なのだろうが日本で小売価格3,000円弱と思えばグラスHK$98、ボトルでHK$500越えるのは如何なものか。料理屋にありながら料理の価格に比べ総じて葡萄酒の値段は不親切に高きことは評価できず。Gallaria(かつてDuty Free Shop(免税店)を通称にて屋号としていたが非課税商品を多く扱い屋号は不当にてDFSなる略称としたが最近はGallariaとなる)など観光客に混じり眺めるが購買意欲も起きず。日本語が通じるどころか「六つこーたるゆーてんやからもうちょっと安うしてくれへんかぁ?」と話しかける観光客の心地も図り知れぬがそれを解す香港人店員の聴解力は見事と敬服す。ジム。拳闘取り入れた鍛練にてさすがに昼の酒酔いも抜ける。▼合州国ソルトレイクシティにて開催の冬期五輪にて住民が善意にて住宅のマンションに掲げし万国旗に「台湾の旗」が二枚あり中国大使館が職員を遣り住民説得するが「どの旗を掲げるかは自由」と住民は拒否(朝日)。確かに自由なれど全く個人の意思なのか偶然にも二枚にて合州国国旗と並べて掲げるとは何か作為なきにしも非ずと臆測するがそれにしても報道がこれを「台湾の旗」「台湾の旗」と表現することじたい台湾政府を暗に認めることになりゃせぬか(笑)。政治的性格に徹するなら「中華民国国旗」と言うべきにてさういへば少なくとも台湾は中華民国の「地名」にて台湾政府を容認したことにならず。中国政府もこの住民を説得するよりもそれを台湾の旗と報道するマスコミを非難し再教育するべきでは(笑)。▼旧正月に香港からの観光客を乗せた大陸での観光長距離バスの高速事故多発。それにしても驚くは深センより汕頭や福州などばかりかベトナム国境に近い南寧までもバスが出ていること。ちなみに昨日の横転事故の旅行団は一日目に香港を出て深センに入りバスに搭乗しテーマパーク奇幻世界観光し肇慶に向い七星岩見て賀州にて一泊。翌日は姑婆山から仙姑瀑布を周遊し九舗香酒工場見学し南寧入り。三日目に今回道中にて死亡事故のあったベトナム国境の徳天中越跨國大瀑布見学し南寧戻り。四日目に南寧から甚江、湖光岩を周遊し金鹿園。最終日は甚江より陽江十八子刀具廠を見学して金山温泉に立寄り深センに戻る……という日本人の欧州ツアーも顔負けの過密日程にて、これが普段だとわずか九九九元(一万六千円か)にて全行程アゴ脚枕つきなり。旧正月は流石に1,279元だったそうだがいくら中国国内とはいへ安かろう悪かろうにては事故に遭っても文句もいへず。一日わずか200元弱で誰がいったいいくら儲かるのか。▼サイード朝日新聞の大江君往復書簡にて曰く、アフガニスタン攻略以降「悪の枢軸」として名指しされた国家は二つがムスリム一つがアラブにて、ベトナム戦争以来アメリカが全面戦争を行った相手はイラクアフガニスタンソマリアムスリム国家だけにて、今回アメリカはテロリスト・急進派乃至武装イスラムを執拗に追及し無差別な敵意にて「イスラム」と一括りにされる実は言語も文化も多様な13億もの人々全部をアメリカは「神の加護と神託による善を執行する」正義として国家の敵としているのだが、問題はその余りに単純な「イスラム」なる対象への誤解と敵意が世界中をグローバリゼイションにて包み込み「イスラム」は単純化され人々をその誤解に引きずり込みその正義を無思慮無意識に支持させている、とサイード氏。まさに氏がかつて『オリエンタリズム』にて分析したように欧州にて架空のオリエンタルなるものが概念として誕生し「育まれた」ように今回は「イスラム」なるものが概念として勝手に歩き始めている恐怖を語るものなり。