富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

四月十三日(金)百年ぶりに寶雲道を走る。ドリアンアイスを食べていたので走るとドリアンのおくび、けして気持ちいいものではない。Shau Kei Wanの香港電影資料館で王家衛の『阿飛正傳』を今度こそ途中寝ないで全編見ようとZ嬢と出掛け、維多利亞公園をバスから眺めれば今年も六四の国殤集会に向けてか大がかりな造成工事にて集会の矮小化狙い。途中バスの乗換えで北角、飽餃店なる灣仔と旺角にある店なのだが、これが北角にも開店し、小腹が空いたのでここで小籠包、菜肉蒸餃、葱油餅を食すが、けして不味くはないが再び来るかと問われれば否、丹精込めて作っているようで味があまりに一般的で化学調味料がいいコクを醸し出す現代風味。香港電影資料館は展示場のあまりの幼稚さに笑ってしまう。『阿飛正傳』はつひに途中寝ずに95分見通せば、やっとこの作品が駄作のしかも大作であることに気付き、とにかく単純明解な映画ばかり作ってきた香港が90年というエポックメーキングな時期に王家衛に抽象的な作品を撮らせ、香港映画の幅と度量を見せようと張國榮張曼玉劉徳華梁朝偉、張學友という大スター共演させ、だからこそ駄作でも劇場公開されたし営業的には失敗しても伝説化し今日までこうして香港映画祭に掛かるほどなのだが、張國榮が次々と女を取換え引換えの遊侠も一見すれば花川戸、助六なのだが名分ってのがない、ただ遊んでるだけで生みの親を捜しにフィリピンに行く巣立てぬ鳥、張曼玉と意外に張學友の好演、梁朝偉も筋から外れてしまいチョー有名な全く意味不明のラストシーンで突然現れるだけだが、あのシーンでのロングテイクでの「男が出かける迄のサマ」はマジに歴史に残る素晴らしい演技であって、あれだけこの『阿飛正傳』のフィルムが捨てられない根拠になろう。この作品を敢えて意味深く看れば、鍵は<時間>である。香港のシーンで何処も彼処も時計が時間を刻んでいるのだが、この映画に登場する人々は劉徳華の警官を除き誰も時間など気にする必要のない遊び人ばかり、時間を刻むことの無用さ、それでも時間が過ぎる不条理、そしてフィリピンは一切時計が登場せず時間は唯一、船乗りとなった劉徳華張國榮が時間を尋ねるシーンだけだが、この劉徳華もけっきょく船を捨て張國榮との逃亡となり時間から遠ざかっていく。そして止まない雨と湿気、これは台湾で蔡明亮が重要なモチーフとして現在まで引きずっている。映画終わって砲台山まで戻りS氏の評判の手打ちうどん屋を訪れるが戸にすでに手打ちは売り切れの看板あり、火曜日に行ったばかりの閔江春小館、今晩は鶏巻、海鮮滷麺と通菜、滷麺も美味いが鶏巻(鶏の肉と出汁で作った粽を春巻のように揚げてあると思ってくれ給え)は格別、これがビールと合うこと至極。余談だが鹵は塩だが滷は何かと思い辞書を牽いたら「にがり」、なるほど。ついに荷風の斷腸亭日剩を読み始める。これは何ヶ月かかることか。