富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

12月23日(土)快晴。気温15度なれど陽射し強く昼の暖さ期待し新聞三紙と数ヶ月溜まった雑誌:FEER、BT、Brutus等々をバッグにつめて外出。FilofaxのOrganizer修理を尖沙咀はSwindon書店の事務所に依頼しに訪れば八年か旧知の同書店営業担当のD嬢受付傍の机にて仕事中、毎度も70年代後半の少女漫画、清原なつのか、に出てくるような知性をかもし出す彼女と暫し談笑。九龍公園を抜けると游泳池は屋外は水抜き修繕中だが一部日光浴用に確保され一瞬入ろうかと思うがどうせ午前の部では読みきれる量の雑誌ではなく佐敦のジムの屋上にて日光浴しながら夕方まで雑誌読破。BT誌で恒例のエアライン等の読者投票の結果掲載、SQの殆ど独占は致し方ないとして(不満はあるが、あの悪酔いするほど濃い給仕ぶり)アンセット航空の三位は見事、かつて10年前かZ嬢とMerbourneからPerthに飛ぶ際に在豪の友人M嬢がとってくれたフライト、案セットと聞いて What's that? だったものが decade にして今や亜洲と環太平洋では押しも押されぬ一流、ANAはそれをどう見習うのか、大韓航空のエコノミー一位は搭乗未経験で予想もつかず総合5位まで浮上はソ連北朝もなくフライトが安全との評価か、かつてトップ10の上位に顔を出さんばかりだったANAは13位のJALに続き14位とじり貧。夕方メドとした雑誌読破して中環、Z嬢と太子大厦はOliversのワインセラーにて待ちあわせ、ラムはあたしゃずっとMyersなのだが仏領西印のDillonという濃ラムと邂逅(帰宅して味わうとMyersより更に濃厚でコクがありMyersの甘みが厭な時には好!と一期一会)、Olivers傍のWarnacoというクリスタル屋にて英Dartington社のクリスタルのデカンタを購う。帰宅の途中、ハリウッド道のBrizel Hous、聖誕節の前日にして閉まっており、ふと閉業か、と、単なる休業日であればいいが、かつては香港で絶品のドイツビールを供してくれ贔屓にしていたがバーテンダーがかわったらそれまで注文してから最低5分は待たされたワルシュタイナーやErdingerがまるで麥當勞のようなスピードで供されるようになり当然の如く味もかなり劣化し足を運ばなくなっていた。帰宅。辛丹波の超辛口で湯豆腐すれば辛丹波の味の劣化、おもひ起せば銅鑼湾三越地下にPark'n Shopが開店して祝儀で購いしは8月、すでに3ヶ月半はこの熱帯の気候では日本酒には酷。またも中国からの貨物船のコンテナで密境、コンテナはまるで公共交通機関か。快活谷の昼競馬、慌ただしさ甚だしく予想もできず第9レースの心之靈(New Asian)のみ単勝複勝にて購入すればギリギリ三着でトントン。三島由紀夫『十代書簡集』(新潮社)読了、軍国主義に厭世感の公威青年、戦後の右傾化は相いれぬ気もするが、惟ふに、公威君は日本は対米戦に負けると開戦直後から察していたが、彼は將か彼の信奉する日本の文学が文化がたかだかアメリカに負けたとしても戦後あそこまで打撃を喰らうとは、まさかあそこまでカムカムエブリボディで日本がアメ帝文化の翼賛体制になるとは想像もしていなかったのではなかろうか、そして敗戦後その現実の中で彼が望んだことは日本の文芸の復興であり(彼にとっては)、そのために努力したが世はどんどんと非日本化していき、ついに文芸では彼独りでは限界を感じ、そこで武力を辞さぬ革命を興し「国民」に決起を促したのか……と些か同情こそすれ、所詮、公威君にせよ『羊の歌』でメーメーの加藤周一君にせよ、右も左も1945年まで何もしえず、だからこそ戦後も何もできなかったまでのこと。 おっと不敬、忘れていたが天長節今上天皇におかれましては畏み候、戦後民主主義のおそらく一番骨子たる部分を樋口陽一教授や井上ひさしと同世代として強く心に刻み、立法行政の悪しき思惑も何のそのと、強く日本国憲法の精神の遵守に言及する天皇は個人的に偉い(だから天皇制を賛美するものではないが)と思ひ、ワイオミング夫人を宮中に喚ぶなどだから三島由紀夫が怒るわけだがそれをした昭和天皇の長嶋的アバンギャルド性も凄いし、浩宮様におかれても今どきあんな誠実な青年この世にいないよ、と呆れるほど天皇家三代に唖然とす、お見事。大寒に二日遅れて柚子の風呂、柚子は東大和より贈られしもの。