富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

橋本忍、筒井康隆

辰年二月十八日。気温摂氏4.2/15.4度。晴。森本哲郎さんが朝のラヂオ(TBS)で自民党裏金につき首相自らの事情聴取から話を始め、岸田について「鈍感であまり深く考えず」「ことの重大性がわからず」進めてしまふことにつき罵るやうに苦言。「国民の理解を得ながら進める」とお題目唱へるが実際には国民の理解からは遠き彼方への船出。岸田が「不気味で怖い」と森本さん。御意。

4月7日に観世能楽堂で開催の観世会春の別会は関根祥丸君が〈道成寺〉披キで楽しみにしてゐたところテケツはネット発売開始ですでに予定数終了。2月定期能の日に窓口で先行発売だつたが、そのときですでに20席くらゐしかなかつたとか。ご宗家、御曹司がシテでないのに観世流の別会でこの反響とは。祥丸君祖父・祥六師(1930~2012)が観世XXV元正(左近)の筆頭弟子で倅の祥人氏は2010年に半百で急逝。遺された祥丸君は観世流でかなり期待の高いシテ方。それゆゑ支援者も多く東大観世会講師でもありさうしたお身内のテケツ手配だけでもかなり大変なやう。ツテも頼つたがテケツ手配困難で観世会からもウェイティングでも手配できずと葉書が本日届く。


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お気に入りの倫敦Fox傘店の黄色い傘。香港の雨傘運動盛んだつた頃にFox Umbrellasにも黄色は既存品になく色見本からの誂へ。ネームバンドが伸びてしまつたのを家人が香港の深水埗で黄色のゴム調達してきて直してくれた。

新潮社『波』4月号届く。筒井康隆の連載日記(今月のお題はキサラギ君)一読。原宿住まひで家の表札が黒ずんでしまつた(前回、原宿を歩いたとき確かに筒井康隆の表札は黒ずんでゐた)ことから始まる日記では妻(光子さん)の痴呆が進みつゝあることに慰るどころか苦言続きの容赦なき謂はゞ言葉の暴力が読んでゐて痛々しい。青山の紀ノ国屋に食材購ひに妻と出かけるのだが万単位の食品が(家人の痴呆による無制限な食欲もあり)下手すると1日でなくなつてしまふこと。外食は帝国ホテルのラ=ブラスリー(こちらが六月閉店でもう予約で満杯なのださう)、同ホテルの北京、藍泉(ニューオータニ)、キャピトル東急のオリガミ、同ホテルのにいづ、銀座九兵衛……妻の痴呆が進行する老夫婦がこゝまで高級ホテルの名だたる料理屋などまるで「徘徊」のやうに食事に出かける。何だか読んでゐて悲しいくらいのまさに「暴挙」である。老いた妻に「あんな厳しい物言ひを活字で公言しなくても良いのに」と悲しくなるほどだが筒井康隆の場合、その家人への暴言の先には遅かれ早かれ痴呆になる自分がゐる。自分の恍惚については更に止めどない罵詈雑言となるのではないかしら。荷風散人の孤高すら彷彿させる、何とも壮絶なリアル。とんでもないことが起きることを私たち筒井の読者は怖いもの見たさで読んでゐる。

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キクマサムネをぬる燗で、それに京都「雲月」の小松こんぶ、大坂「岸澤屋」の黒豆煮、神宗の塩昆布でも良いけど、さういふものがあると、もう他に何もいらない。年をとると、これに白飯が一口でもあれば、それでお夕食すら済んでしまふ。今晩はこれに豚汁がついた。

鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折 (文春e-book)

春日太一鬼の筆 - 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)読む。戦後日本の映画界を代表する脚本家である橋本忍。橋本の父が兵庫県鶴居で小料理屋営みながら興行師で忍少年は幼いころから芝居や映画に親しんでゐたものゝ兵役につくも結核で余命短しと医者にいはれ療養中に偶然読んだ伊丹万作の脚本(ホン)に刺激を受け自ら書いてみた脚本を唐突に伊丹万作に送つてみせる。伊丹はそれを受入れ脚本執筆の指導までしてくれたが急逝。伊丹と親しかつた佐伯清(監督)介して紹介されたのが黒澤明。黒澤が橋本の脚本に着目して『羅生門』になるなんて。嘘のやうな話だが、コンビは『生きる』そして『七人の侍』へ。同じ黒澤組で小國英雄の存在。TBSテレビ『私は貝になりたい』から自主プロダクションでの『砂の器』制作へ。創価学会による支援と池田大作『人間革命』の映画化。丹波哲郎。その後の『八甲田山』や『日本沈没』『八つ墓村』などの大ヒット。その生涯を著者(春日太一)がじつに精緻にまとめてみせた。

羅生門』はまだしも『生きる』『七人の侍』はいずれも黒澤明の発案がスタートである。そのため橋本が「僕の作品」と言い切るのはさすがに言い過ぎだ。一方(略)『羅生門』を含めて三本全ても橋本が「先行」して書いてきたことも事実であり橋本が主張するように「僕がいかなれば成り立たない作品」であることも確かだ。それだけ橋本の功績は大きかったにもかかわらず全ての賞賛が黒澤へ向かい当時は誰も橋本の存在に見向きもしなかった──。それが橋本の認識だった。そして、その想いが後の黒澤との関係そして橋本の脚本家としてのスタンス大きく影響していくこととなる。

元々は『新潮45』に連載されたものださうで橋本忍への長時間のインタビューをしてゐたことも貴重な記録。『生きる』のあの物語の展開は橋本が幼い頃から文楽に親しみ『箱根霊験躄仇討はこねれいげんいざりのあだうち』などの演出が活かされてゐるといふやうな指摘も興味深いところ。松本清張の原作からストーリーは大いに改められ「父子の旅」に重きが置かれたが確かに前半の静かな流れに対して今西警部補(丹波哲郎)を中心とした捜査会議の場から和賀(加藤剛)の指揮によるコンサートの場、そして「父子の旅」の過酷な状況の彷彿など映画を一度見たら脳裏から消えない数々のシーンは文楽的な演出効果といはれると頷けるところあり(勿論、劇的となるプロットはいくつも批判もあるのだが)。

この方を未来の天皇にできないのかしら。