富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

差別への態度に政治的中立などない

辰年正月初五。気温摂氏▲0.3/18.6度。晴。知己のスリランカ人の息子君が今月末に県立高校受験。昨年11月に来日で日本語辿々しいがかなり会話もできるやうになり今は小学校低学年レベルの漢字勉強中。茨城県の外国人特例選抜で国数英の3科目と面接で受験可。俄か受験勉強につきあふ。国語は選択問題を当てるも八卦、で数英はかなり実力はあるが設問の日本語が難しい。そこで解答用紙の解答欄の様式から「英語」なら解答欄が空欄なら「ア〜エの中から最も正確なものを選びなさい」、矢印(→)があれば「ア〜オを最も意味が通る順番に並べなさい」で解答欄に(  )が3つあれば英単語を並べて記入しなさい、といふやうに解答欄から設問を理解するやうに提案(我ながら咄嗟によく思ひついた)。インタビューの練習。彼ら家族はセイロンの仏教徒だとわかつてゐたので文殊菩薩梵字のお守りを用意して差し上げる。

扇動に備える:朝日新聞

朝、森本哲郎のラヂオ番組(TBS)でこの特集を紹介してゐた。

差別への態度に政治的中立などない(安田浩一

小池都知事朝鮮人虐殺追悼への距離感、群馬県での朝鮮人追悼碑の強制撤去……人権や差別といふものに政治的中立はないのだ、と。御意。

以前、講演に行ったある大学で学生に「安田さんって人権方面の方ですよね?」と聞かれました。「人権方面」という微妙な言葉遣いの向こう側には日本社会の寒々しい空気を感じざるを得ません。人権を迫害される人たちの立場で調べ報道する人間が何か特別な「方面」に集まる、あまり関わらないほうがいい偏った人たち、とみなされているのです。彼らに、ヘイトデモの様子や沖縄の辺野古基地建設現場の座り込みなどの映像を見せると「怖い」と言うんです。ヘイトでの激しい言葉遣いや国家権力の暴力が怖いのではなく人々が争う姿が怖いから見たくない。その感覚からは当然、人権侵害と闘うジャーナリストは特定の場所に集まる怖い人になる。差別に対して中立風にふるまう国や政治家の態度が彼らに影響を与えていると思います。「差別反対」を特別なことと遠ざける、社会の空気を醸成しているのです。それは結果として「静かなる扇動」と違わないという認識が必要です。

民主派活動家が「扇動罪」で身柄拘束され禁固刑となる香港について阿古智子先生(東京大学)がコメント。

香港で当局が行っていることこそ扇動です。検閲と出版統制を進め、教育現場では「愛国」を中心に据えて国家が決めた「正しいこと」を子どもに教え込む。政府に従わない者に「異見人士」とレッテルを貼り監視下に置く。密告を奨励する。今や表現の自由は窒息死し、人間の豊かな思考や感性はどんどん破壊されています。まさにオーウェルの「1984」の世界です。

ところで香港で明日発売となる記念切手のタイトルは「簾潔香港」。「反貧故事」「全力執法」「誠信教育」「制度防貧」「経典宣伝」……あまりにブラックジョークな言葉が並ぶ。まさにこれも扇動。

f:id:fookpaktsuen:20240215135905j:image

ただ、扇動は権威主義国家でだけ起きるわけではない。日本でも特定の集団への憎悪や分断をあおる言説は商業誌にもSNSにもあふれてゐる。

言論の自由と多様性は保障されなければなりませんが、批判や議論を成り立たせるには「他者の意見を尊重する」という一定のルールが必要です。その価値を伝えられるのは教育ですが、日本では政治的な意見表明を敬遠し、教員にも過度に中立性を求める空気がある。これでは主権者として必要な多様な視点や考える力、行動力を養うことはできません。人権、民主主義、言論と思想の自由こそが豊かな思考を解放し扇動の力を無化できます。そしてそれは「空気のように何もせず維持できるものではない」のです。(阿古先生)

日本で戦前は戦前で近代天皇制や治安維持法などで思想や言論の自由も大きな制限と重圧を受けたものゝ自由民権運動からの政治的な意見表明や教育での自由主義社会主義など「管理外の次元」もあつたのが事実。