富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

癸卯年八月廿八日

気温摂氏11.2/22.4度。秋晴れ。

 社会学者・大澤真幸(一語一会) 松本深志高校恩師の言葉:朝日新聞

松本深志高校1で「どこにも居場所がない」という違和感、孤独感で不登校気味だつた大澤君。1学期末に担任の中村先生は入学時に大澤君が提出した作文「人間とは何か」について語つてくれたといふ。

君の精神の核にはものすごく輪郭のはっきりした形の、複雑で繊細で美しい構造がある。君はそれを見つめて生きていくことになるのではないか……。

大澤君は感激した。「誰にも分かってもらえないだろう」と思ひつゝ書いた文章を自分自身よりも深く理解してくれる人がゐたのだ。大澤君はそれからは先生が主宰する読書会でギリシャ悲劇や旧約聖書ヨブ記マルクスを読み、数学の美しさを語り合つた。仲間と自宅に押しかけ鍋を囲み……なんて「松本な」青春なのかしら。

(私の謎 柄谷行人回想録)遠藤さんの知恵、僕と中上を結んだ:朝日新聞

68年の群像新人賞では最終選考まで残ったが落選した。その後、遠藤周作に呼び出された。遠藤さんは売れっ子作家で『三田文学』の編集長を引き受けたんですね。新宿の紀伊國屋書店ビルの4階あたりに編集室があって、行ってみると、先に男が来ていた。それが中上だった。(当時、柄谷27歳、中上22歳)遠藤さんが僕らに話した事情では、要するに「どうすれば苦労せずにいい書き手を見つけられるか」ということで、知恵を絞って、雑誌『群像』の編集部に相談したという。「新人賞の落選作を回してくれ」と頼んだらしい。そして、評論から僕、小説から中上を選んだ。僕は即座に断りました。もう次の応募作を書いていたので、余計なことをしたくなかったから。僕がその部屋を出て、廊下でエレベーターに乗ろうとしていたとき、中上が追いかけて来たんです。それで、ちょっと下の喫茶店で話していこう、ということになった。僕は即座に断りました。もう次の応募作を書いていたので、余計なことをしたくなかったから。僕がその部屋を出て、廊下でエレベーターに乗ろうとしていたとき、中上が追いかけて来たんです。それで、ちょっと下の喫茶店で話していこう、ということになった。互いに自己紹介をして、彼は参加していた同人誌『文芸首都』の話をしたと思う。そこに太宰治の娘(津島佑子)がいる、と自慢げに話していたのを覚えています。

寺島しのぶの「文七元結」。第3場長屋の女房たちと連れ立って花道を出る。わざわざ女形と並べると寺島しのぶの技量を以てしても声質と、貧乏の沁み方の濃度の違いがあらわになる。どうしても淡く小奇麗にみえてしまうのである。(児玉竜一

これについて初日をご覧になつた村上湛君がexTwitterでかう述べてゐる。

寺島しのぶ。役者ぶりも良く好感も充分なのだが、歌舞伎役者の中に独り入ると、彩色画の中に素描か白描を描き込んだようだった。素敵に巧い素描・白描であり、脚本や演出の工夫を助け船のように凝らしても、歌舞伎役者の主導する芝居の様式に同化、或いは乗り越えるのが、いかに難事であることか。