富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

林芙美子『愉快なる地図 - 台湾・樺太・パリへ』

癸卯年六月初二。気温摂氏24.5/30.0度。曇。摂氏30度で「今日はあまり暑くない」と思ふとは。梅雨はまだ明けず。林芙美子愉快なる地図 - 台湾・樺太・パリへ』(中公文庫)読む。

愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ (中公文庫)

これを読んだのは楊双子『台湾鉄道漫遊のふたり』がキッカケ。その主人公のモデルが林芙美子なのだらう。大正末期に尾道から上京した芙美子は新宿旭町の木賃宿に旅居で執筆活動を開始。若手の女性作家として注目を浴びるやうになり毎日新聞の企画で昭和5年に渡つた台湾への旅に始まり満洲へ、そして『放浪記』で得た印税で昭和6年にシベリア鉄道赤露を経て欧州の巴里までの一人旅。その筆致は今読んでも全く色褪せてゐない。
台湾では台北の大稲埕(タイチュウチャ)の市場の熱気を芙美子はかう綴る。

紅いかが無数に磔にされてブス/\湯気を吐いてゐたり、韮と豚と、もやしとが釜の中にトグロを巻いてゐたり、群れた無数の人、手づかみの立ち食ひ、垢をためた爪の間から、汁のまゝ煮物がたれさがっている。

この筆致で大陸に渡り欧州までを一人旅する若い娘が林芙美子。中国語、ロシア語にフランス語どころか英語も満足に解さないのだが辞書片手に熱心に人々と語り合ふ。こんな旅慣れはどこから来るのか。旺盛な好奇心とはいへ。

私は、北京では色んな人達に出逢った。郊外にある清華大学を訪れて、銭稲孫氏にもお会ひしたが、立派な学者肌の人である。──或日、銭稲孫氏に連れられて、建築家の家庭へお茶によばれたことがあったが、そこの美しい夫人はこんなことを私にたずねた。(略)自分は代々の親日家で、日本には非常な好意を寄せてゐたが、いまは、何もなくなってしまった。かつてアメリカに留学してゐた時の自分の望郷には、日本を懐かしむ気持がたぶんにあったけれど、こんな風な状態になっては、最早何もなくなりましたよ、と云ふ話だった。(略)いずれの国の人民も愛国心を持たないものはない……東洋の平和は、東洋の女達がもっと手を握り合あつてもいゝのじゃないのだらうか。市井の小さな出来事にも、亭主が何か間違ひで隣家へ飛び込んで行ったら、あとで、細君が出て行って円満に詫びるのではないか。
私は政治的なものは何も知らない。ほんとに女子供の一旅行者に過ぎないけれど、何かすこしずつ胸に沁みて来るものはあった。各外国の大資本を投じた文化侵略を視て、如何にも不器用な日本を感じないでもない。

もう当時の日本は軍国の焦臭さ。満洲でも樺太でも公安に左傾と胡散臭く見られる芙美子。それでも芙美子は明るくリベラル。

ロンドンの平和論者の一部には大ヤバン国日本とやっつけてゐますが、日支戦争の折から井上さんの暗殺は、益々日本を大ヤバン国にしたらしい。これでは日本も軍隊や右翼から革命が起きるのですかね。厭なことだ。イタリー人みたいに理屈が通らないとなると、私も少し剣術をならって帰らなければならない。十三日の日曜日にはトラファルガ廣場で、中国コミンタンのデモンストレーションがあります。無論日支問題の事を演説するのでせう。聞きに行くつもり。(略)
上海まで戦争が拡がったやうですがいったいだうなるのでせう。外国へ来てゐると、毎日の新聞で、日本の評判の悪いのが気になる。全く、上海までも戦争に行かなければならないのですかね。トラファルガル広場の、中国コミンタンの示威運動も、あまりパッとはしなかったけれど、中国婦人の火を吐く愛国の演説には感激してしまひました。
ねえ、誰だって国を愛してゐるのだ。国を愛しきってゐるのです。
ねえ、国だと金だの人民だのを玩具のやうにしてゐる政治家や軍人達を、そんなのからだうにかならないものだらうか。──世界大戦の跡、どこに平和が来たのだらう。各国の人民が疲れきって、──外国を歩いてゐると、今でもプンプンと血醒いベルダンの匂ひがします。足のない男、片手のない男、片眼のない男、そんなベルダンの遺物が何をしてゐるのかと云ふと、大抵は、サンドウィッチマンか、乞食か、ヴィオロンをひく芸人です。かつては人気の焦点になった兵隊さんの末路が欧州諸国にうよ/\と吐口がないのよ。
「そんなに呑気なことを云っちゃ困りますよ。日本は今は喰ふか喰へぬかの境ひめだ。豊富なお隣の物を失敬する事も万やむを得ないでせう。」
たまらない理論だと思ひますよ。