富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

癸卯年三月十九日

気温摂氏8.5/16.2度。晴。大型連休明けの世間に対して急な養生で社会復帰せず週明けの月曜日。いつも以上にラヂオが嬉しく、さすがに未明から夜明けに〈ラヂオ深夜便〉は聞かぬが朝はTBSの森本毅郎スタンバイで始まり昼に月曜は高田文夫ビバリーで笑ひ午後は荻上チキ。どれも冒頭の15分しか聞かないのだが。高田先生いきなり「いやーイギリスで国王になったチャールズと俺は同い年だから」で馴れ/\しく語り始めチャールズ国王を「チャーの字」とは良く言つたもの。昨日からお酒をいたゞいてをらず夕方に美味しいハイボールを飲みたいと一瞬思つたがアルコールの禁断症状もなく、それよりも美味しい珈琲を飲んでゐないことのほうが何だか落ち着かない。

こんな生活がどれほど幸せなことか……

林与一がどれほど素晴らしい役者か、あの岡本町の大檀那も「与一さんの歌舞伎復帰があつたら」と思つてゐたと村上湛君からも聞いてゐたが、そのあたりの話が与一さまの昨年のインタビューに出てゐた。

林与一 – 日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

神山彰三島由紀夫さんの『椿説弓張月』[一九六九年十一月・国立劇場]。
林与一)あのときは、歌右衛門さんが「東宝にいるけど与一ちゃんを使ってあげたら」という助言があって使ってくださった。三島先生に「何で林与一なんですか」と聞くと「成駒屋がね、この役の生締が合うのが今歌舞伎界にいない、林与一しかいない」と推薦してくださったと。そんなことないと思うんだけれども(笑)、そのときにふっと、梶原とか、実盛とか、生締めの役をやりたいなと思ったことがある。あの公演のちょうど中日過ぎに玉三郎君と僕と理事長室[三島は当時非常勤の理事だったが、高橋誠一郎理事長は不在が多く、理事長室を使うこともあった]に呼ばれて、三島先生から「今度書きたいのは『十種香』だから、与一君と玉三郎君で『十種香』を書いてやるよ」と言って、三島先生が亡くなってそれは夢になっちゃったんだけど。いまだに玉三郎君と会うと、「あのときに『十種香』をやって、勝頼と八重垣をやっていたら、それをきっかけに歌舞伎へ帰っていたかもしれないね」と話すんです。「帰りゃよかったのに、あのとき」と言われたけど。きっかけというのはやっぱりあるよ。あの当時は俳優協会に籍がないと国立には出られなかったけど、三島先生がどうしても与一君を出してくれと言ってくれた。そのとき国立の理事が柴田小三郎さんでしたでしょう。あの方が、うちのおじいちゃん[林又一郎]のごひいきさんの弟さんだったの。文三さんというのはお兄さんで、そのとき高砂熱学という会社の社長で、その方の応援もあって、オーケーした。だから、[制作室の]織田[紘二]君から、理事と三島先生で出したけど、本当はあのとき出られなかったんだよということを言われた。その実績があったので、『女人哀詞』[一九七八年十月・国立劇場]のときに水谷八重子さんが、「鶴松は与一ちゃんで」と言われた時、二つ返事ではんこを押せたのは、三島先生があったから出られたんだと。だから、国立に出られたのは三島由紀夫さんのおかげです。