富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三島由紀夫『沈める滝』

癸卯年閏二月晦日。気温摂氏8.2/21.9度。晴。中学の同級生だつた女子のお家に所用あり寄つたら商売家なのだが高齢の方が出てこられて「〇〇ちゃんのお父さまですか?」と尋ねたら「いえいえ、わたくしは使用人ですよ」とまるで小澤昭一のやうな笑顔と声色。で「社長は……」と娘のことを話された。大した御仁である。ほれぼれ。

沈める滝 (新潮文庫)

昨日読んだ高山真『エゴイスト』で主人公(浩輔)愛読と三島由紀夫沈める滝』があつて、それが引用されるのは大都会は棲息する上では大森林と同じやうな易さ云々といふこと(だけ)だつたが三島のこの『沈める』は読んだこともなかつたので全集で一読。以下、斎藤美奈子的に辛口にいへば(ってアタシには甘口にいへるだけの感動なんて一つもなかつたのだが)そも/\「祖父からの遺産に恵まれた主人公」つて、もうそれだけでアタシはダメ。読んでも何一つの感銘もなければネット書評では三島の、この水塘技師らの会話からも見事とされるが、そも/\水塘の技師らの会話にアタシは興味もないから面白くも何もない。女もゐない環境で若い技師たち=男がエロだの妄想の会話で三島先生はその取材はさぞや愉快だつたかしら。では、なぜこの『エゴイスト』で浩輔=筆者はこの『沈める』愛読だつたのか。それがわからない。この小説のなかで浩輔の感性で唯一わからないのが、この三島の小説愛読。『仮面の告白』や『禁色』だつたら「やっぱり」だが。確かに心理の変化や風景などの描写は三島由紀夫らしく上手。だから高山真が心理描写などをこの『沈める』から何か手法を得てゐたかもしれないが、それだけなら主人公が愛読とまではしまい。なぜか?と考へてゐたら「つまらない話でも果たして小説になるのだらうか」のテキストだつたのかも? なんてことまで想像してしまつた。勿論、高山真のこの『エゴ』のモチーフはつまらなくもないし十分に小説として成り立つ話なのだけれど。