富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

この世界の問ひ方(大澤真幸)

癸卯年二月初四。気温摂氏0.5/13.4度。天長節。今上陛下におかれては先帝からの「日本の戦後の国のかたち」のまさに象徴。自民党政権があれだけバカでも天皇がゐることで維持される日本のかたち。情けないが現状では戦後日本の最大の抑止力が天皇制。米国の信託がそれ。これが戦後日本そのもの。

金澤からの持ち帰りで七尾のしら井で購めた寒鰤の昆布巻き、金澤の宮田の生麩、食後に高砂屋の巻絹(能で〈巻絹〉はまだ見たことがない)をいたゞいた。

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酒は加賀の銘酒といひたいところだが宮城は塩釜の〈浦霞〉の純米酒を飲む。今日、地元の酒のやまやで〈加賀鳶〉と〈菊姫〉の純米酒を購入。金沢駅ビルに入つてゐる酒屋で地元の銘酒を買つて帰らうかと思つたが重いし諦めたのだけど水府の酒のやまやの方が金沢の駅ビルより廉価なのだからあばらかべっそん。ところで金澤の備忘その①柳宗理記念デザイン研究所向かひのアンティーク食器扱ふ三田商店で見たバカラの香檳杯〈フィラオ〉8脚ほど揃ひであつたが1脚9千円は実に安値であつたこと。②石川県立図書館の設計は仙田満。③復路の北陸新幹線の車内の気温は摂氏25.9度にも達したこと。鉄道列車の車内はいつも暑いので半袖のポロシャツと無印の携帯数碼温度計を持参してゐる。③水戸駅から郎卓までタクシーは基本料金の距離でタクシーに乗ると運転手の大方が不愉快さうで悪態をつかれたことも何度もあるが昨晩のタクシー(グリーンタクシー)は恐らく地元にまだあまり地理の馴染みない運転手だつたが本当に態度が良くマナーも見事だつたこと。かういふ運転手には「お釣りは結構」と多少の心付けは渡したくなる。

この世界の問い方 普遍的な正義と資本主義の行方 (朝日新書)

大澤真幸この世界の問い方』を読む。普遍的な正義と資本主義の行方。朝日新聞の〈好書好日〉の連載まとめたもの。コロナ、ウクライナの時代の時代の見方。ロシアにとつてのウクライナとは何か。ロシアのウクライナ侵攻のあとメディアでウクライナの首都キーウとかで取材が始まつたときウクライナの人々が流暢に英語を話すとき何か感じなかつたかしら。ロシアからして見れば「圏内」のウクライナの、あの米国化「こそ」赦されないのではないのかしら。昭和の1980年代だつたか青春映画『グローイングアップ』を見ていたときに、あれがアメリカンカルチャーの青春そのものと思つたとき、あれはイスラエルのことと観衆の何割が理解したかしら。それと同じ驚きをアタシは今のキーウからの映像で感じてゐる。

今日、誰もが(表向きフランシス=フクヤマを批判している者も含めて)現在がすでに「歴史の終わり」であることを受け入れてしまっている。「歴史の終わり」の受容とは資本主義が最後の選択であるということを公理のような絶対の前提としてしまうことを意味している。階級闘争は(略)資本主義の定義的な要件であるような生産関係の否定を含んでいるので資本主義を受け入れてしまえば、もうそれ自体として組織され実行されることはない。しかしだからといって階級闘争は存在しない、ということにはならない。階級闘争は他のさまざまな闘争に歪みや過剰性を宿らせる作用素として存在しているのだ。階級闘争はさまざまな運動や闘争に──当事者には近くされることなく──寄生している。

問題の真の本質は、まさに(略)資本主義的な市場にあるかもしれないのだ。資本主義が内在させている我々の普遍的な連帯に対する破壊的な作用こそが、つまり階級の分化を生み出す搾取の関係こそが戦争というかたちで現れた問題の真の原因かもしれない。

私たちは──「戦前の私たち」は──全面的に誤っていった、とその罪を認めざるをえない。この傷を癒すことができるのは戦後の体験を通じて敗戦によって示された罪や恥を補償するに十分な「善きもの」を得たきにときに限られる。その「善きもの」とは9条である。(略)もし九条を獲得しなかったのだとしたら私たちは敗戦によって何を学んだことになるのか、と。九条を放棄してしまえば私たちは敗戦の傷を負ったまゝの段階に差し戻されることになる。(略)九条が目指しているところは諸国民の間の、あるいは諸国家の間の普遍的な連帯に基づく人民の平和的な共存である。したがって九条の理念を実行するということは普遍的な包摂制連帯のための積極的なアクターとなることだ。

眞幸先生にこんなあまりに時事評論みたいな文章を書いてほしいとは思はないのだが眞幸先生がこんなことを書かなければならないほど時代は追ひこまれてゐるのでせう。