富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

癸卯年正月十九日

気温摂氏▲0.4/9.2度。晴。

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▼3月13日メドにマスク着用緩和なんだとか。感染症専門家の判断→政治的判断で結局「各自で判断」となる。そもそもマスク着用だつて「協力要請」で、それでも民草は従順であるからきちんとマスクしてきたが「各自で判断」ほど判断が六ツかしいことはない。そこでいちいち個別の決定が必要になり卒業式もマスク外すが国歌斉唱とか「呼びかけ」の際にはマスク着用でマスクは制服の左のポケットに入れておくなんてことまで細則が必要に。大西巨人神聖喜劇』の世界。

村上湛(評・舞台)木ノ下歌舞伎「桜姫東文章」:朝日新聞

畏友村上湛君の劇評がさすが面白い。劇評が劇からきちんと独立して批評といふ作品に昇華。これを読むと隣に並ぶ歌舞伎座についての記述が「劇評」ではなく内容の紹介と「感想」に映る。木ノ下歌舞伎(これをアタシは見たことがない)の〈桜姫東文章〉について湛君はいきなり1817年のこれの初演について語る。桜姫(半四郎Ⅴ)は数へで42歳。「自己中心的な高僧・清玄と自意識過剰の悪漢・権助を演じた」團十郎Ⅶは同27歳。

老いゆく半四郎には後進の人気者を歯牙にも掛けぬ自負があり、性的蠱惑を身上とし物堅い役柄に適さなかった彼が「制度としての姫役を批評」したのが、この芝居の面白さだ。

「大太夫」と呼ばれた半四郎のこんな世界をアタシは想像もできないのだが、それを少しでも解つた気にさせてくれることの面白さ。今回の木ノ下歌舞伎も205年前の初演のとき「企み」のやうに「劇全体に張り巡らされた批評眼は、口跡の良い彼らの秀演を即時に対象化」してゐるといふ。

「すべて無意味であることを暴くのが批評の意味」とする相対主義は、役者の演技をも解体する。虚無的な芝居ごっこである。

批評がどれだけ過激なのか、を痛感させられる刺激的な記述(ディスクール)なのでした。