富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

М+開幕


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中共6中全会閉幕「歴史決議」採択 - 習指導部が抱える内憂外患 成長減速、強まる包囲網 :朝日新聞

6中全会は「党の100年奮闘の重大な成果と歴史的経験に関する決議」を採択した。中国共産党1921年の創立以来、中国人民の幸福と中華民族の再興のために活動することを使命としてきた。党と人民の100年の奮闘は、中華民族の歴史の中で最も壮大な叙事詩を書き上げた。

この偉大なる壮大なる抒情詩に終はりがあつてはいけない。

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紐育のMOMAだとか倫敦のテートモダンだとか世界的国際都市にはそれに相応しい現代美術館があつてカタールイスラム美術館のやうに優れた建築家による美術館建築も話題となるなか香港の西九龍地区に文化区設け「現代美術館の開設を」といふ発案から15年を経て漸く〈M+美術館〉開館。現代美術にはかなり政治的メッセージ性ある作品もあるわけで〈M+〉も収蔵作品のなかに艾未未天安門広場天安門に向け中指を立てた写真作品だとかあることが問題視もされ国安法施行で、この美術館がさうした政治性ある反政府的色彩の作品を展示できるののか?と注目されてゐたなかでの開館。明報によれば展示された1.5千件の収蔵品のなかには天安門事件をモチーフにした〈新北京〉や放映禁止対象の映画〈十年〉の断片を含む映像作品や艾未未の陶芸作品〈洗白〉もあるのだといふ。

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王興偉作の〈新北京〉は北京の市街をリヤカーに傷ついた2匹のペンギンを乗せて自転車でそれを運ぶ3人の若者の姿。これは香港の写真家・劉香成の〈1989年北京,送受傷的學生去醫院。〉といふ写真が原本で言はずもがな天安門事件の際に人民解放軍の鎮圧で重傷負つた学生を運ぶ光景。この劉香成の写真作品も〈М+〉は収蔵してゐる由。艾未未の〈洗白〉のテーマは「粉飾不能掩蓋過去」で、これかて中共に対する痛切な批判だらう。今回の展示はかなりぎりぎりの線で当然、事前に当局へのすり合はせもしてゐるはず。国安法下の現代美術館がある程度刺激性のない作品ばかり陳列したら開館から不人気になること明らかで美術館側のぎりぎりの抵抗がこれなのだらう。だが建制派などこんな展示は不愉快の極み。

この美術館には新橋にあつた寿司屋がそのまま作品として展示される。(朝日新聞

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倉俣史朗デザインの寿司屋〈きよ友〉 | Casa BRUTUSに詳しいが倉俣史朗(1934~1991)が晩年の1988年にデザインした新橋にあつた寿司屋で、まさにバブル期だが2004年に経営難のため暖簾を下ろし営業当時の姿を保ちながら保管されていたものがM+美術館に移管されるとは数奇な展開ではある。美術館のなかで寿司屋やつちまへば。


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マイナンバーカードではマイナポイントもいたゞいたが今度は健康保険証に紐付けすると(実際にマイナンバーカードが保険証として使へる医療機関は数%らしいが、そんなことはどーでも良いことで)7.5千円支給ならそれで良い。慌てる乞食はもらひが少ないで政府の給付金決定前に登録してしまふと対象外といふ説もあり。

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晩に紐育から帰国したT君を駅南の居酒屋に招飲で駅南に向かふ途中、久々にアイリッシュパブのケルズに寄りいつものやうにギネスとキルケニーのハーフ&ハーフを注文したらマスターY氏から「キルケニーも日本ではもう年内でおしまひですね」と聞く。輸入販売元(キリン)にもうキルケニーの樽の入荷は止まつてゐる由。コロナ禍もあり生樽は鮮度が勝負だから残れば捨てざるを得ないしキルケニーはアイリッシュパブではなくてはならない定番だが日本での消費量は全体ではけして多くないはず。香港ではさすがに元英国領でパブでキルケニーは定番だつたのだが。いつもならハーフ&ハーフからギネスなのだけれど今日はキルケニーを二杯目に。今晩は目ぼしい和食屋何軒か電話したがみんな爆満。もう座席間引きしてゐない店ばかりだが本当に客足が戻つてきてゐるのか。客足もだが料理人や従業員が飲食業から離れてしまひ回帰せず再開できないとか、今晩の居酒屋もそれが理由で一部メニュー提供できません。T君とは4年前にアタシが間違つて紐育マラソンに参上でPeter Lugerにステーキを食べに連れていつてもらつて以来。旧交を温める。紐育はブルックリンとかでも20年ぶりくらゐに治安が悪くなつたといふ。今回の帰国のフライトはJALの直行便でCクラスに6人、Yクラスに3人でYでも往復で26万円くらゐだつたさう。母から茨城は八郷町(現石岡市)の皇室献上もされる美味しさうな富有柿をいたゞく。

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陋宅は照明が暗い

大学生のときに医学生だつたN兄が仙台の青葉町で散らかつてはゐるが知的好奇心にあふれる、大学生には広めのマンションに住んでゐて(部屋に無造作にチェンバロもあつた)照明の暗い部屋だつたのだが「本に目を通すとかにランプとか灯りに近寄つて一寸身体を捩じらせたやうにして読む仕草ってのがいいね」と言つた。明るい部屋でどこでも本が読めてはいけない。陰翳礼賛。アタシもいつの間にか蛍光灯を暗めの電球にしてランプを置いたりするやうになつた。

(語る 人生の贈りもの)池辺晋一郎⑨ :朝日新聞

20代の頃の話。先輩の作曲家・松村禎三が当時、伊福部昭のアシスタントで映画「氷点」の音楽などを手がけていた池野成のことを池辺に話してくれたといふ。

池野はもともと音楽なんか何の関係もない男だったんだ。それ、終戦後の荒れ果てた街を歩いていた時、どこの家からかものすごい音楽がきこえてきた。彼は、その場に立ち尽くした。米軍放送のストラビンスキーの「春の祭典」だった。そんなことは、その頃の池野にはわからない。でも、その瞬間、彼は「これから音楽をやって生きていこう」と決心したんだ。すごいだろう。

「で、池辺くんよ。君にとってのそういう瞬間は一体何だったんだ」と池辺に質す池野。

「えっ」て感じですよ。聞かれた僕の身になってみてよ。そんな瞬間、あるわけないじゃない。そしたら松村さんはこう言ったんです。「君は、作曲坊やだ」と。

さういはれて「心底ショックでした」と池辺。五線譜の存在を知らない幼いときから作曲をしてきた池辺にとつて作曲は遊びのやうなものだつた。しかし三善晃、林光、松村ら池辺より一回り上の世代は「確かに戦争といふ体験に突き動かされて曲を書いてゐた」。池辺は疎開はしたけれど戦争といふものに対してリアルに苦悩したわけではなかつた。池辺には「作曲坊や」といふ言葉が心に刺さつて抜けなくなり2年ほど自分に音楽が湧いてこず自分の曲が書けなくなつたといふ。

小田亮「大谷がみせた「脱分業」という夢 」朝日新聞

現代の人々は分業制にうんざりしてしまったのではないでしょうか。米国の人も日本の人も「入れ替え可能な部品」として扱われるのではなく「入れ替え不可能な個人」として存在している大谷選手から「脱分業」の夢をみて熱狂しているのだと思います。