富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

水戸空襲


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香港の消費券の運用開始。景気刺激で18歳以上の市民1人あたりHKD5K(7万円)の支給が決まり今回は現金支給ではなく貯蓄等に回ること防ぐため2:2:1の割合で電子マネーで特定のアカウントに支給。最初の2を消費すると次の2で最後1で、とにかく消費せよ、といふアイデアとその実現までのスピーディさはさすが。Octopusカードへの入金もできることで高齢者にも楽だし申請ぢたいオンラインか所定の用紙で自分のID番号と振込先の電子マネーの番号とかを教へるだけ。対象者はこの2年以内に香港に居住してゐることが条件で、そのためアタシでもこの支給対象。申請して通ると携帯にSMSが届くだけで後日入金。日本が今いちばん遅れてゐるノウハウがこれ。大公報は早速のこの消費刺激を喜ぶが明報は電子マネーに入金あつたところで公共市場で3/4の店舗がこの消費券での支払ひ対応できないと報じてゐる。

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今日8月2日は昭和20年に未明、米軍による水戸への大規模な空襲あり朝までに水戸の市街地が焼け野原に。日本は南方で米軍と戦つて皇国を守らうとしてゐたのだが現実にはグラマン戦闘機を載せた空母が太平洋の沖合にゐたわけで飛行距離が2,000㎞だとすると彼らは死を決して体当たりなんてせず必ず生還するから往復で本土から1,000㎞といふのはピンとこないが同距離は西だと北朝鮮であつて、これは「近い」。この水戸大空襲の今日に合はせ、このイベント。50人ほどの会場で半数近くが小学生。大したものだ。今日の語り手の一人亀田さん(昭和5年生まれ)は当時、水戸高等女学校の学生で日立製作所の鮎川工場に勤労奉仕に通つてゐたといふ。もうお一人は小菅さん(昭和11年生まれ)は小学3年生で会場の子どもたちに小学3年生は来てる?と自分が君たちの年だつた時の話をします、と語り始められた。

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水戸市立博物館が昨年のうちだつたか、この▲水戸の空襲地図をまとめてゐる。昭和20年7月2日未明のわずか3時間ほどで水戸の北は那珂川、南は千波湖に挟まれた台地と城東の下市の旧市街は見事に焼夷弾で焼失。この地図を見ると誰もが目をやるのは旧市街の西方、地図を拡大して見ると水戸商業高校のある今の新荘のあたりだけが焼け残つてゐる。その西の旧制水戸高校のあたりは焼けて火は北の谷中のほうにぐるりと巻いてゐる。これは何か理由があるのか、偶然か、ずつと偶然だとアタシは思つてゐたが小菅さんの仮説が面白かつた。小菅さん曰く、偕楽園から西は当時は常盤村。戦争をする軍隊といふのも行政期間的な几帳面さはあるわけで日本の各都市の詳細な地図をもとに爆撃地点を決め水戸を攻撃するとすれば攻撃目標を定め、その一つが上市では今日の会場となつた水戸文化交流プラザの西隣にある当時の水戸五軒国民学校(アタシの母校で現在は水戸芸術館)であり水戸市が目標なら周囲の村々は爆撃対象ではないだらう。常盤村は圏外。それで水商のあたりは爆撃されず水高の方は偕楽園あたりの住宅地からの類焼で風向きがさうさせたのかもしれない。
f:id:fookpaktsuen:20210802184737j:image亀田さんのお家は水戸の老舗書店で浅草当時、一橋で学んでゐた長兄は戦争末期に学徒動員で徴兵され戦艦大和に主計で乗り込まれ戦死。遺骨のない白紙一枚入つた骨壷が戦後、戻つてきたといふ。兵学校にゐた兄、日本女子大で学んでゐた姉も戻り焼け野原の泉町2の敷地に家を建て、戦後の日々の第一歩を踏み出した、と。当時は本当に人々が食糧ばかりか文字に飢えてゐて東京から雑誌が届くと軒先で飛ぶやうに売れたといふ話を以前お聞きした。アタシの家は戦後はこのお家から借地して商売を営んでゐた。小菅さんの生家もアタシの家のすぐ近く。浅草当時はお父様が常陽銀行(南町2)の建築関係の仕事をされてゐて本店の宿舎住まひ。この空襲の時は7人家族が逃げるのに今だと勝手に「家族が逸れないやうに」と思ふが全員が集まつて逃げてゐては非難まで時間がかゝるので家族が父母と長兄の3人をそれぞれ引率とする3班に分かれ逃げたといふ。さうすることで動きも機敏になり誰か生き残る確率も確かに高くなる。戦時下のリアリズムか、こんな話はかういふ機会でないと聞けない。また、この8月2日に先だつ7月8日の空襲の時は昼間で、小菅少年は近所の友だちたちと駅南の千波湖、櫻川の泥地に魚釣りに出かけてゐたといふ。そこに一編隊が飛んできて、それが米軍機でこのあたりを銃撃で命からがら木の影に隠れて命ひろひ。よく低空飛行は「飛行士の顔が見えた」といふが本当ださうで、この空襲で家ではみんな押し入れに隠れてゐたさうだが(焼夷弾空爆はなかつた)家のある市街から、この編隊の飛行機は見えず、高台といつても20〜30mの高低差で、それくらい地上すれすれを西から千波湖から水戸駅の方に向かつたのである。それを高射砲で撃ち落とすだけの戦力も当時の日本にはなかつたのだ(これは本土戦なんて想定もしてゐないのだから開戦当時からさうだらう)。お二人とも子どもたちに戦争がどれだけ悲惨なものか、戦後の日本は戦争をしないでこゝまで来た、世界の人と仲良く平和に暮らしていつてください、と語る。


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駅南のアイリッシュパブ(Kells)で久々にギネス啤酒ぐびぐび。櫻川を渡り餃子の福来。レヂに1円玉の入つた籠があり募金?と思つたら逆で会計のときに小銭が足りなければお使ひください、と。確かにあと2円あれば、とか「ある、ある」である。ありがたいし逆に1円玉をこゝに残してゆく客もゐるだらう。かうした合理的なことをさらっとやつてしまふ中国系家族経営の発想は本当に立派なもの。