富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

スガが中止求めても東京五輪は開催されるとIOC


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2万人の隠形つまり症状の出てゐない感染者が市中にゐて市民の99.5%は抗体がないので、だからワクチン接種せよと大公報。1面記事の上に今日「完善」選挙制度草案が議会通過と。選挙制度草案に「完善」と冠つてしまふ自画自賛。しかも議会とは土共建制派だけの提灯議会に過ぎない。蘋果日報は感染者が隔離施設から逃亡を1面トップに。杜撰な管理を叱る。こちらの1面記事の上には蘋果日報の親会社である壹媒体が本日、株式市場に復牌と。警察に拘留されたまゝの社主ジミー黎智英氏の資産差し押さえで壹媒体は資金繰り厳しくなつてゐたが台湾の蘋果日報清算で負資産減少での経営改善だといふ。

毎週木曜日は朝、新聞で『週刊文春』の見出しをつい目がいくわけだが東京五輪は首相たるスガが中止求めても開催されるとIOCの横暴。

中止を決定できるのが国際オリンピック委員会IOC)のみとする契約内容に驚いた人も多いだろう。答責性は、日本政府のみならず、開催に固執するIOCにもある。当事国である日本のメディアは、外国の報道機関任せにせず、バッハ会長の説明責任、さらに答責性を追及しなければならない。

これ(上)は 、この週刊文春の記事に非ず今日の朝日新聞より。

五輪、危うい政治の願望思考 井上達夫・東大名誉教授に聞く:朝日新聞

為政者は有権者に説明責任を果たさなければならない。民主主義の基盤だ。それを怠る彼らにより自覚を促すため、「答責性」という厳しい言葉をかみしめてもらいたいと思う。
このまま五輪を強行し、取り返しのつかない被害が出たら誰が責任を取るのか。誰の首が飛ぶのか。そうした緊張感をもって有権者に向き合い、応答する重い責任が為政者にはある。
振り返ればコロナ禍の1年余、政府は危機管理能力の欠如を露呈してきた。PCR検査の実施を抑え、実態把握が遅れた。緊急事態宣言を早々に解除、日本を成功モデルと自賛した。次の大波に備えよと指摘されていたにもかかわらず、十分な準備で臨んだとはいえまい。
政治の役割は人々が見たくない現実を冷徹に見据えることなのに、こうあってほしいという願望思考ばかりで、危機の実相を直視しようとしなかった。
やがて感染が再び拡大し収拾がつかなくなると、変異株の脅威などを言い訳に失敗を認めない。欺瞞は明らかだろう。

 (論壇時評) 林香里「コロナ禍と五輪 傷にふれて、語り継げるか」朝日新聞

日本に生きる私たちは、五輪のために建てられたスタジアムや選手村を、後年、どのような「記念碑」として見上げることになるだろう。私たち市民にとって、もはやなぜ開催するのかさえわからなくなっている失敗五輪を、せめて傷として記憶し、後世に語り継ぐことができるだろうか。
本間龍は、世界的に見て、東京五輪は税金を湯水のように使って民間企業を肥やす「祝賀資本主義」のもっともグロテスクな完成型で、歴史に記録されるだろうという*1。実は、この本間の論考にはちょっぴり矛盾がある。なぜなら、彼自身が指摘するとおり、東京五輪ではそもそも歴史の記録係が機能していない。なんといっても、祝祭の中心にいるのは、メディアを支配する広告代理店電通と大手新聞社だ。東京五輪では、主要報道機関がスポンサーになって、世界にも類いまれな「五輪翼賛プロパガンダ」体制ができあがっているという。新聞社が五輪開催にノーと言わないことに対する批判*2
さらに、NHKも政府の拡声器となり下がっている疑いが濃い。長井暁の論考によれば、五輪開催の是非を問うNHKスペシャルが、収録2日前にいったん中止された。また、聖火リレーの中継映像で、沿道の市民から抗議の声が聞こえた直後に音声が消えた*3。メディアではすでに傷跡の書き換えが行われている。26日には朝日新聞が社説で開催反対を主張した。民意を代弁したメディアが孤立しないようにと願うばかりだ。

もう世界中の世論が東京五輪開催を疑つてゐる。

この五輪は東日本大震災からの復興を祝して(核禍の「アンダーコントロール」は欺瞞ばかりだつた)が、それが「人類がコロナに打ち勝った証し」になつて(それでも昨年の1年延期決定では電通も1年後には疫禍も克服の途上にあるだらうと楽観してゐたが)コロナに、殊に日本は全く打ち勝てないのだから、それを謳つた五輪を開催する資格なんてないだらう。


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絵本『はらぺこあおむし』の作者エリック=カールさん死去があんなに大きく報道されるのに驚いた。絵本は作品が評判になると翻訳もたくさん出ていつまでも世に残る。ちょっとしたディスプレイでトラに絵本を読ませる感じにしてみようと絵本のミニチュアを手作りしてみたがトラに読ませると可愛らしいニワトリとアヒルをトラが「美味しそう」と虎視眈々と狙つてゐるやうになつてしまつた。

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まだ愛でるに堪へるか少しのカローラ残し明日来たる君を待つ花
陋宅が何だか殺風景なので台所と和室の床の間には花を活けるやうになつた。切り花は萎えると放かすのがいつも忍びなかつたが銀座で畏友久が原T君に「日々」で開催中の宮岡麻衣子さんの個展に誘はれ一輪挿しならぬ「数輪挿し」を買ひ求めた。これは重宝。

大の仲良しだから誉めるわけぢゃないが村上湛君の歌舞伎評(朝日新聞)まことに秀逸*4。「並木宗輔が時代物浄瑠璃の定法である多段構成を純世話物に初めて試みた「夏祭浪花鑑」は、市井に蠢く最低級の無頼漢たちの……」と前置きなしで、いきなりぐいっと、この芝居の磁場に引き寄せられる。評論はその元になる文芸作品や芝居、音楽などあるのだが批評が独立した作品になる妙はロラン=バルトとか吉田秀和とかあるわけで(また書評で書評の方が評している本ぢたいより面白いとか)当世、湛君の歌舞伎評はまさにその域に達しよう。今回の評論ではコクーン歌舞伎であるから十八代目(亡くなつて、もう十年にならうとしてゐる)が何をそこで目指したのか、それをきちんと折口信夫の言説でおさえた上で今回の役者の芝居を脇役まできちんと評して、その上でコクーン歌舞伎といふ伝統に対する革新的な芝居が古典化してゆくなかで当代勘九郎に対して新たな「夏祭」を創る課題を問ふてゐる。

この戯曲の本源「様式に鎧われない反社会性」は、勘九郎の曽祖父・三代目歌六の生きた大坂(おおざか)芝居の猥雑な原風景から喚び覚まされるはずである。

その劇評の最後に三代目歌六*5が出てこようとは。もう村上湛ワールドでアタシたちは渦に捲き込まれて「ひえーっ」と評論の面白さを愉しむしかない。歌舞伎といへば松嶋屋秀太郎兄さんが亡くなつた。

片岡秀太郎さん死去 上方歌舞伎の女形 人間国宝:朝日新聞

アタシは平成の歌舞伎は稀にしか見てゐない。それでも仁左衛門丈の芝居が多かつたことで(また村上湛君の言説に乗じてで恐縮だが)アタシも当代仁左衛門の菅丞相で秀太郎丈の「苅屋姫、立田、覚寿と順に勤めた歴史を見知っている」一人になれた。湛君のいふ通り(その上演が歌舞伎座だつたと思ふと)上方の松嶋屋であるから松竹座や南座で見られたら確かに格別であつただらうし、仁左衛門丈が切望する大判事役は松嶋屋の一家一門で秀太郎の定高、愛之助の久我之助、孝太郎の雛鳥で〈妹背山〉が見たかつた、と……確かにこれは素晴らしさう。あれ?と思つたが寡聞にして……で恥ずかしいが松嶋屋がまだ吉野川で大判事を演つてゐなかつたとは気がつきもしなかつた。吉野川は大成駒が好んでにとつて晩年の最高の当たり役で、確かに高麗屋播磨屋での吉野川をアタシも見てゐるし、それに先代高麗屋勘三郎XVIIや松緑とはあつたがやうだが、どこか「仁左衛門」の記憶があり辿つてみたら昭和63年の歌舞伎座で珍しく〈妹背山〉の通しがあつて大成駒の定高、高麗屋の大判事に先代の仁左衛門蘇我入鹿役だつた。京屋のお三輪も本当に見事だつたのを今でも覚えてゐる。京屋といへば(三度、湛君から聞いた話になるが)大成駒亡きあと定高を演じてゐるのは大和屋と京蔵さんだけなのださう。京屋門弟の「桜梅会」で〈吉野川〉を出したのだといふ(新宿スペースゼロ)。よくぞ、雀右衛門の見識。そこで京蔵さんが演つてをられたとは。

幻の東京五輪聖火リレーすら断念する自治体多いなか水府は茨城ロボッツのB1昇格で祝賀パレードだとはあばからべっそん!

*1:本間龍「祝賀資本主義のグロテスクな象徴」『世界』6月号

*2:「五輪スポンサーに雁首揃える大新聞6社に『開催賛成か』直撃」NEWSポストセブン5月22日号

*3:長井暁「NHKと政治と世論誘導」『世界』6月号

*4:ルビが多いのでデジタル版のテキストで読むのは難儀、やはり縦書きで紙面レイアウトが良い

*5:当代勘九郎の祖父・勘三郎XVIIは歌六Ⅲの三男。兄に初代吉右衛門時蔵Ⅲがゐる。