富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

中島らも


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香港で収まりかけてゐた感染がじわじわとまた感染連鎖。香港の名門・エリザベス中学の教員や卒業生の有志が「香港基本法擁護」といふ意見広告。香港基本法擁護は国安法に触れるはずもなく正論だが蘋果日報に載ると香港基本法で保障された人権や自由の擁護で反語的に国安法反対と当然読めるところ。

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7.1多份報章頭版登廣告向北京表忠,楊健興指反映港府以大陸管治媒體方式套用到香港。

7月8日の蘋果日報で 楊健興:有傳媒或遭大搜捕  に7月1日に香港各紙が挙つて国安法成立祝賀の広告(香港市役所謹製)を1面全面に掲載したなかで蘋果日報だけが反国安法の記事を掲載のグラフィックあり。事実だが果たして香港市役所は、この広告を香港で蘋果日報も含めて全紙に広告出稿したのかどうかは気になるところ。蘋果日報抜きだったのかしら。

本日、農暦五月十八日。梅雨どころか九州では豪雨で死者多数。水府は幸ひ小雨程度で今日も通り雨あつたが曇り空。せめてもの運動に千波湖畔の桜川沿ひの遊歩道を自転車で走る。夜は飲んでしまふとただ/\眠く朝早く起きて読書したり湿り気のとれぬ衣服にアイロンかけたり。

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 (集英社文庫)

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 (集英社文庫)

  • 作者:中島 らも
  • 発売日: 1997/08/20
  • メディア: 文庫
 

異才・中島らも(酒徒にて故人)の青春思ひ出エッセイ読了。朝日新聞の大阪サービス紙「A+1」に1978年3月~1988年12月に連載。灘中学から灘高に通ひ落ちこぼれた青春時代、三宮界隈での切ない日々。らも氏は広告代理店・日広エージェンシー就職が1981年で雑誌『宝島』で「かねてつ食品」の『啓蒙かまぼこ新聞』連載開始が1984年。これで全国区となり朝日新聞での「明るい悩み相談室」は1984年から。つまり、この文庫本に収録されてゐる「A+1」への連載開始は、らも氏がまだ大津屋といふ印刷屋時代に始まつたもので、らも氏を発見した朝日新聞大阪のまさに慧眼。この随筆も、らも氏の躁鬱が明らかで第1章(丸坊主軍団、まいる)はかなりのハレ。それに対して第3章(フーテン浪人日記)や終章(モラトリアムの闇)は鬱の極み。灘中も当時は丸坊主(70年前後の学生運動で私服、髪型自由に)。丸坊主への抵抗としての一文は後の「明るい悩み相談室」彷彿させる、らも氏得意の発想が面白い。

中学生諸君には五分刈りではなく「スキンヘッド」にして抵抗することをおすすめする。それなら校則にもふれないし、サングラスをかけてディスコにもいける。

教育者の人たちは、一度頭を丸めて反省したほうがいいのではないだろか。

 酒の痛飲でアル中になつた、らも氏。入院で酒の量を考へてみると18年つまり閏年入れて6,547日で1日に日本酒五合飲んだとすると18年で3,287升=5,916.6㍑で(酒の比重を1.0として……らも氏、細かい)約6tは縦3m、横2mで深さ1mの水槽一杯分。プールとまではいかないが銭湯の浴槽くらゐ。「溺れて死ぬには十分すぎるくらいの量だ」。確かに。だが、これを18年で飲むとすると「これくらゐ飲めるんじゃないか」と思ふか何うかが酒鬼か、さうぢゃないかの分際だらう。