富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

小川宏ショー

fookpaktsuen2016-12-07

農暦十一月初九。大雪。快晴。能の宝生流のご宗家来港で尊顔拝す機会あり。偶然にも八月に横浜能楽堂で何年ぶりの能で宝生流の「熊野」見ており偶然も偶然。日本に注文した本が届く。雑誌『一個人』の「個室寝台列車の完全図鑑」は鉄ちゃんとして当然として、つい鉄道とはいへ児童本まで購入してしまふ私。誰か子どももあげることに。それにしても『一個人』という雑誌のタイトル、日本語に普通名詞で「一個人」はないし、つい広東語で「ヤッコヤン」と呼んでしまふ。晩に銅羅湾の居酒屋一番。岸和田Y氏、家人と飲む。この居酒屋、雑誌『飲食男女』の居酒屋特集でトップに挙げられ雑誌効果で繁盛か、と四半世紀の知己で今ではオーナーのG君に聞くと効果はまぁまぁで寧ろ記事を見た昔の客が懐かしく戻つてきてくれる、といふ。
▼フジテレビ「小川宏ショー」の小川宏アナウンサー逝去。享年九十。小学1年の時に私、この番組に出演。といつても私が、ではなく父が出演でとなりにちょこん、と。芸能人の昔、お世話になつた人、音信不通の人との「ご対面コーナー」あり。ゲストはジェリー藤尾さん。この方が10代で昭和30年頃の新宿でやんちゃしてゐた頃に当時、警視庁の警官だつた父が仕事を超へ兄のやうに可愛がつてゐた時期あり。その彼が歌が上手いので「歌手にでもなれ」と笑つてゐたといふ。警察を辞めた父がNHKテレビの「夢であいましょう」見てゐたらヒット曲『遠くへ行きたい』を歌ふ彼を見て何と驚いたことか。それで8年後かに、この番組でのご対面となつたが、ゲスト本人が知らぬ間に「実は出てきてもらつては困る」やうな人選がされたら大変なことになるので誰を呼ぶか、は当然、ゲストからの取材で折り込みずみ。それをまるで突然のやうに驚き泣くのだから今でいへば「やらせ」だが当時は人気企画。出演前日、父と上野驛に着くとフジテレビ社員のお迎へありハイヤーで今にして思ふと神楽坂界隈か、しつかりとした旅館に送られ庭を眺める部屋でゆっくりと食事。父の緊張がよくわかる。翌朝早朝に局が差し回しのハイヤーでフジテレビへ。簡単なリハのあと本番。まぁ当時はライトの眩しかつたこと。放送のあと昼に実に豪華なレストランで、ホテルの高層ビルではなく、庭もあり、場所的に考へると椿山荘か、そこでジェリー藤尾夫妻囲み出演者での昼の食事会。勿論、ジェリーさんがお世話になつた方々ばかりで感謝、感謝。この日のことがアトまでアタシが忘れられぬのは一通りの西洋料理のフルコースメニューで、サラダが出て来た時に「ドレッシングは何になさいますか?」と給仕が慇懃に、それも最初に尋ねてきたのが幼い私。少なくとも当時、ドレッシングなるものはよほどの高級家庭ぢゃないと知らないわけで(キューピーだのがドレッシング普及させお歳暮などで届くのは、その数年後)、少なくとも野菜にマヨネーズはあつたが当時の幼いアタシは大の野菜嫌ひでマヨネーズ=野菜なのでマヨネーズといふ発想もない。「ドレッシングは何になさいますか?」の給仕のアタシへの問ひに長テーブルを囲む全ての大人たちの視線が集まる。なぜなら、その大人たちの多数が間違ひなくドレッシングの種類など自分もわからないから。凝り固まるアタシ。目の前には大嫌ひな野菜がサラダ。そこに胡瓜。ふと胡瓜=醤油が浮かぶ。寿司のかっぱ巻きぢゃないのだから、と自分に言ひ聞かせるがドレッシングなんてわからないよ……で周囲の大人たちの視線を浴びた静寂のなか「醤油……」と口から出てしまふ。「はっ?」と給仕。冷や汗で「醤油……のドレッシング」と、口から初めて「ドレッシング」といふ言葉を発する。給仕の表情に緊張、そして「は、はい、畏まりました」と。穴があつたら入りたいほど恥ずかしいアタシ。その隣で、次にドレッシングを聞かれた父は「こ、これ」とドレッシングの皿を指さす。さうか、さういふ手段があつたのか、と。父とてドレッシングの名前なんてわかるはずもない。そして一通りドレッシングがサーブされた頃に「お待たせしました」とアタシに「醤油のドレッシング」が用意される。醤油に酢と(あとになつて思ふと)パジリコが混じり子どもにも美味。その日は食事の途中からレストランのお庭でジェリー藤尾の娘さん方と走り回つて遊んだ記憶。それから四、五年後にお歳暮で届くキューピーのドレッシングに「和風ドレッシング」なるものあり。舐めてみると、あのジェリー藤尾との恥ずかしい会食の時のドレッシングの味ではないか。その時から和風ドレッシングをサラダにかけ飰すたびに「日本で和風ドレッシングを初めて考案したのはアタシぢゃないか」と思ふ。……なんだか『暮らしの手帖』の読者投稿エッセイのやうなことを書いてしまつた。