富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2016-10-10

農暦九月初十日。夜中に目覚めて机に凭つてゐると空が白み夜明けとなる。当たり前のことだが素敵。雙十節。重陽節。今日も仕事。昨日束の間の休日だつただけでも幸はひ。
▼党内の憲法議論は「正直言って、まだ進んでいない」と公明党の山口代表。党内で国会議員も世代交代しており「新しい世代も含めゼロから(議論を)行い合意形成を模索していく」。憲法9条は戦力不所持を前提に自衛隊の存在や平和貢献を加憲すべきといふ意見もあるが国際貢献は「憲法にそういう理念がすでに入っているとの見方もある、自衛隊は国民に支持されている、もう少し丁寧に議論していい」と。晋三の自民党にとつて公明党は与党なのか、果たして晋三にとつての我々の最大の抵抗勢力と見なしていゝのか。わからん。
▼体育の日で「名称をスポーツの日に」って電通の策略か?の如き東京新聞の社説(こちら)。

「体育の日」という名称が、スポーツのあるべき姿と照らし合わせてふさわしいかといえば疑問がある。
例えば「スポーツを楽しむ」とは言っても、「体育を楽しむ」とはあまり聞いたことがない。同じように「スポーツを見る」はあっても「体育を見る」という表現はまず使わない。これは、もともとスポーツが文化として存在しているからだ。人間の心を満たして豊かにする文化は、自らが創り出すこともあれば、他の人が創ったものを見たり、聴いたり、触れたりして楽しむ側面を持つ。人間が一定のルールの下で自らの肉体と精神力を鍛えて技術を磨き、見ている人に感動や生きる力を与える。それがスポーツであり、音楽や絵画と同様に人類の文化として存在している。
一方、体育という言葉は「健全な身体の発達を促し、運動能力や健康で安全な生活を営む能力を育成し、人間性を豊かにすることを目的とする教育」(広辞苑)。体育とは教育であり「楽しむ」や「見る」とは違う地平にあることが分かる。そのため、これらの言葉と組み合わせると違和感を覚えてしまう。

……なんか、イヤだね、この「健全にすりゃいい」といふ左傾のわかりやすさ。若宮啓文の「君が代に2番を」みたいで。そも/\近代国家で国家のよき軍人となるべき健康で健やかに育つ国民要請のための「体育」で、何が悪いのか、それが真実でせうに。
ポーランドのアンジェイ=ワイダ監督逝去。享年九十。高校生のころワイダ監督の『灰とダイヤモンド』(1958年)が『ぴあ』とかでリバイバル上映で紹介されてゐて。『大理石の男』(1976年)から『鉄の男』(1981年)へ。スターリン批判直後、社会主義イデオロギーに人間的な立場から疑問を投げかける映画づくりで「彼が映画を作れるか」が国民的関心だつた、と佐藤忠男先生。