富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

張紣暋『鉄道への夢が日本人を作った』

fookpaktsuen2016-06-05

農暦五月初一。芒種。おそらく意識しては初めてNHKの中波第1で「音楽の泉」聞く。水戸の武家の出である皆川達夫氏(1927〜)が矍鑠と番組を続けてゐるが1988年から担当されてゐるので若々しい声を聞くのは初めて。さすがに初代(1949〜1959)の堀内敬三は私も聞いてをらず、中学の頃から聞きたくても日曜朝8時では起きるはずもない。貝多芬の「英雄」といふわかりやすい今朝の内容。朝から銅羅湾。散髪。理容室の主人からハバナ産の葉巻10本ほどいたゞく。極度の運動不足で理容室近くのジムに寄りトレッドミルで走らうと思つたら移転済み。同じ銅羅湾の移転先で30分だけ走り帰宅。午後は陋宅で書室に籠り、あれ、これ。安田記念のサイマルキャスト。モーリスだらうがベリー騎手に一抹の不安ありリアルスチールを本命にしてモーリスと香港からのコンテントメントに流す。結果、まさかでロゴタイプが3年前の皐月賞以来の勝利でモーリス2着、リアルスチールがブービーでコンテントメントがどん尻。いやはや。今年になつて初の龍井茶を服し夕方にはこれも初物の枝豆とビール。お好み焼き。琉球放送沖縄県知事選の開票速報聞いたが、この速報番組の始まる前の番組で「このあと開票速報番組」と紹介しつつ流れてゐた音楽がビリー=ジョエルの“Honesty”と“My Life”であつた。晩に朝日新書で張紣暋さんの『鉄道への夢が日本人を作った』読み、珍しく夜更かしで半夜三更に至る。
▼1982年ある新聞社の宴席、酔った司馬さんが突然その新聞を「ダメだ」とこき下ろし「明治に漱石を雇うことでいい新聞になった。今、いい新聞にするにはキーンを雇うしかない」。歴史に残る文豪と私を同列に扱う。酔狂な発言に一同は大笑い。ほろ酔いの私も気に留めなかった。一週間ほどして私は客員編集委員になり日本の日記文学について連載した。それで複数の文学賞も受賞した。
▼張紣暋『鉄道への夢が日本人を作った』朝日新聞出版。山岡由美訳。明治の始めの鉄道建設事業は鉄道建設を目的に英国からの借款をとりつけるが実は借款の100万ポンドのうち多くは貨幣発行事業に費やされ、鉄道も「建設ありき」で、それに「全国の人心統一のために運輸交通の整備が必要」だとか天皇の京や歴代天皇陵参拝などに東京から西に下る鉄道が必要といつた理由が後付けで据ゑられ、民間資金による鉄道整備を国は働きかけ、鉄道債券を募り、この鉄道事業により会計制度、商業法など整備が進み資本主義が育まれた、といふ。士族相手の公債を鉄道株にし、鉄道の国有化も投資家や企業に利潤を与へ、鉄道建設は本来の目的とは別にマネーの動きとしての重要性。これが第1章で、第2省では地方は地方で鉄道未敷設の地域は政党政治家が有権者に鉄道敷設の公約を掲げ投票を促し、住民が中央へ陳情繰り返すなど鉄道は資本主義ばかりか「民主主義的な行動」も育んだのだといふ、政治的な部分が語られる。以上が著者の博士論文を元にした部分で、これに第3章で原武史の一連の鉄道論が紹介される。

鉄道が有する機能や、社会的ニーズの変遷だけによって鉄道の敷設を説明することは不可能だ。鉄度が敷かれ、列車が使われたのは、株への投資や票の獲得、あるいは参詣など、鉄道と関係のない動機によることが多かった。ところが結果として鉄道に対する信仰が強まり、人々は鉄度を施設したそもそもの理由を忘れ、鉄道が役立つから敷いたのだと思い込むようになった。

著者は第4章の結論でかう指摘する。鉄道建設がそれほど他の意図的な動機によるもので、確かにそれもある気はするが、それであつたと断定され、それが鉄道信仰となり「鉄道は役立つから敷いた」といふのは思ひ込みだ、とまで言はれてしまつては……。これを著者は社会学でマイヤーの社会現象学的な見方や制度論で、さまざまな意図が綾となつて何らかの制度(この本では鉄道建設と、それが近代国家事業として日本で民草から政府までが「必要なもの」として定着させること)が出来上がるといふ認識を披露するが、最後は社会学理論の「おしつけ」で、だから分析の結果、鉄道、その鉄道への「信仰」が近代の日本と日本人を作つたのだ、と言はれても「はい、さうですか」とすんなり納得まではできないところ。この消化不良を感じたまゝ読了して「解説」を読み、そこでの指摘がストンと落ちる。鉄道建設が近代日本に資本主義、民主主義、ナショナリズムを定着したのに大きな役割を果たしたことは事実だが、それは鉄道に限らず学校教育、植民地経営、産業誘致にも当てはまることで、社会学の制度論を用ゐても著者は「なぜ鉄道なのか」といふ疑問に答へてゐない、と。なぜ日本以外はこの鉄道に関する〈制度〉が定着しなかつたのか、なぜ日本は他に比べ鉄道がこゝまで重視されたのか……。この本を読んでゐてアタシ自身好きな分野のはずなのに何処かスカッとしなかつたのは、それ。解説がそれを見事に言ひ当てゝはゐるが著者の分析の欠点を辛辣に指摘するこの〈解説〉は解説どころか見事な批評で、それを本書の解説に置いたことに驚くほどだが、この解説は小熊英二氏である、さすが。英文の論文の和訳(山口由美)が大変良い。この本で一番面白いのは「序章」。「汽車を待つ君の横で ぼくは時計を気にしてる」と『なごり雪』の冒頭の歌詞で鉄道と時間について語り始め、テレビドラマ『あまちゃん』での鉄道のもつ社会的役割、『いい日旅立ち』とDiscovery Japanのあの「日本らしい」感覚。アタシのやうなへそ曲がりでも、つい好きなところだが著者は「用もないのに旅に出る、電車に乗る」で更に「列車でどこに行っても、誰も待ってはくれていない」こと、そもそも「いったい誰が、どうして「私」を待たなければならないのだろう」と……確かに言はれて見たらその通り。どれだけ自分が日本の鉄道と、その観念に慣れてゐるか、と痛感させられるところ。だが、なぜ日本の詩歌、小説や映画で「ホームでの送別シーン」が多いのか、鉄道舞台にした推理小説、復興と希望のシンボルとして鉄道があるのか、地方の人々にとつて都への「上京」のあの感覚(逆に地方への都落ち)……それらが全て日本の特性として提示されるのだが、これらは「鉄道が〈近代〉の夢であつたこと」はけして日本に限つたことではなく(小熊英二の解説の指摘通り)、確かに日本は他に比べ、この鉄道に関して「も」格別に意義を持たせる点はあるが、これは鉄道に限つたことではない。それを「鉄道の機能への期待と信念はもともと「でっちあげ」で、偶然に誕生した、単なる作り話に近い迷信でしかなかった」と言はれた上で、それが近代の日本と日本人を作つた、となると「近代の日本はでっち上げ」といふことで個人的にはそれにはかなり納得するが、鉄道の話だけで、それを導いてしまふと、それはかなり大きな無理がある。それに一番大切なことは、その〈近代のでっちあげ〉は日本に限つたことではない。「世界のあちこちで〈近代〉が作られた」で、これはフーコーまでで已に語られてゐることでせう。