富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

晋三の衆院解散弄びについて

fookpaktsuen2016-05-25

農暦四月十九日。早朝、紅磡のラグナベルデに所用あり。1997年に第1期で5棟が落成し居住始まり2002年までに25棟が完成。4,700世帯で1世帯3人だとしても1.5万人だか居住、1棟あたり600人の高密度住宅地。交通手段は路線バスに依存で計画当初から予定されてゐた地下鉄の延長はやつと今年年内にも黄埔まで開通し便利になるはず。隣接の商業施設は当初、Fisherman's Wharf(漁人碼頭)として海鮮料理屋など集めた施設が華々しく開業したが集客に難あり閉業続きLaguna Mallと名前を変へ幼稚園や補習塾など入り今に至る。朝の出勤通学のラッシュ時間、此処のタクシー乗り場にフィリピン人とかのアマさんたちが並んでゐてタクシーは空車が並んでゐるのに一向に乗りもせず、後から来た人がタクシーに乗つていくので「ん?」と思つたらアマの雇ひ主やその家族が通勤通学でタクシーに乗る際に行列待ち避けるためアマに先着で立たせて順番待ちさせておく措置。なんとまぁ。夕方、Braemar Hillでミニバスに乗つたら渋滞で何かと思へばポルシェ?が見事に暴走で歩道に乗り上げ電柱が食ひ込み大破。車の馬力がわからず高級スポーツカー運転しアクセル踏むから。上手に歩道に入つたもので、歩行者なしは幸い。
▼読売でナベツネ様が取り敢へず「会長」職を退き、それでもまだ代表取締役主筆老害には全く困つたもの。だがナベツネのゐない読売など長嶋のゐない巨人軍のやうなものでナベツネなしでは虚無であるから今からナベツネ崩御後のことを深刻に考へるべき。産経と合併して自民党日本会議の広報誌としての位置でも取るべき(もう既にそれか)。
朝日新聞の夕刊(あのとき・それから)で「7条解散違憲訴訟 衆院解散、総理の専権事項か」といふ記事が懐かしい話だが1952年の吉田茂の抜き打ち解散での苫米地「7条解散違憲訴訟」を取り上げてゐる。

野党改進党の有力議員だった苫米地義三は「抜き打ち解散」後の総選挙には出馬せず1952年10月「7条解散は違憲であり無効」と最高裁に訴え出て、憲法判断を迫った。苫米地は「第7条による解散が有効と認められるような憲法解釈が行われるとすればやがては内閣総理大臣専横の基礎となり、国家の運命は一総理大臣の手に握られ旧憲法時代よりも恐ろしい結果を生ずる」という声明を出した。

本当に義三が恐れた時代が今まさに到来。だが敢へて69条以外の解散もあるわけで長谷部恭男曰く

戦後の代表的な憲法学者の一人である清宮四郎は、日本が議院内閣制である以上、69条所定以外の場合でも内閣の権限で解散はできるとしました。重要な政治問題が新たに出来したときには、有権者の考えを聞くべきだからというのです。最後は主権者たる国民の判断が大事だということで、法理論というより政治的判断として答えを出している。最高裁判決の統治行為論は、暗黙のうちに清宮説に立っていたとも言えます。
現在、憲法に緊急事態条項を入れろという議論があります。何が緊急事態か、その必要性や合理性を最終的に判断すべきなのは裁判所です。高度に政治的だから判断しないなどということになれば、日本はまともな国ではなくなる。緊急事態条項を入れるのであれば同時に、統治行為論の立場はもうとらないと決めなければならないでしょう。

と問題は最高裁が判断逃げたことを指摘。これについて

総理がいつでも好きなときに自由に解散できるというのは「7条解散」を根拠としているわけだが、その合憲性には深刻な疑いあり。最高裁も少なくとも「合憲」という判断はしていない。ただし戦後憲法学を代表する宮沢俊義も清宮四郎も「69条以外でも解散できる」という考え。それはつまり「解散要求」は「主権者である有権者民衆の権利」であり至高のものであるという考え方が基底にあるらからか。たしかに苫米地判決が出た1960年6月の紙面には「各界から解散要求」という記事が連日掲載されていた。「岸を倒せ!」しかし議会の議席配分は不信任案可決に至る情勢ではない、とすると岸はみずから解散して信を問え、というつまり「選挙をやれば勝つのは勿論、我々、民主陣営である」という自信があったわけ。

と築地のH君。