富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2016-04-20

農暦三月十四日。早晩に鵝頸橋の老舗のパブDerbyでO氏とハッピーアワー。明るいうちから酒好きの乗客がちらほら。窓際で今晩のハッピーヴァレイでの競馬にむけSCMPのレーシングポストで競馬予想の老紳士が素敵。湾仔のバーMの口開けでBlack Grouseのハイボールとドライマティーニ。Jaffee Rdに移転で開店となつた日本人倶楽部の三菜にO氏のほか不動産氏、照明氏、写真家と歓談で飰す。三菜もテーブル配置に余裕あり他の客は気にならず。ほぼ個室化した「さくら」は見事。この倶楽部の入るTower 535といふビル、エントランスのエスカレーター部分の天井の曲線はザハ=ハディッドの設計のやう。そのまゝ流れてバーSでボトルキープしてゐたO氏とアタシのジャックダニエル飲み干す。半夜三更といふのにO氏と写真家Tと三人で広島ばくだんつけ麺。
▼「ザハを追い出したのは排外主義では」と磯崎新先生(朝日新聞こちら

新国立競技場の最初のデザイン競技で彼女の案が選ばれた段階では、あのような案を生み出せる建築家を選んだと考えるべきだった。それなのに、規模も機能も過大な条件をほとんど変えずに、設計させた。ザハはいわば被害者なのではないか。条件を変えても、彼女には対応能力があったはずだ。
五輪は本来、都市の祭典で、国が表に出てくる必要はない。国家の五輪としてはナチス政権下の36年のベルリン五輪が典型だが、今回も国が前面に立ったために、大きければいい、派手ならいい、という国や政治家たちの意向が働いたのではないか。もはや建築の議論ではなかった。
旧計画の白紙撤回が表明された昨年7月17日は、安保関連法案が衆院本会議で採決された翌日。競技場問題で安保法制の隠蔽をはかったという見方もあったと思う。2度目の公募への参加申請が締め切られた翌日に、参院本会議で安保関連法が可決・成立した。そして、施行の2日後にザハが亡くなった。
この奇妙な符合に、彼女は日本の戦争と平和を巡る議論に巻き込まれたように感じた。彼女が、2度目の公募にも何とか参加しようとしていると知ったとき、プロフェッショナルな建築家として責任をとろうとしているのだな、と思っていた。