富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

「獣の世」の再来

fookpaktsuen2016-04-12

農暦三月初六。雨。なんだかこの春、やたらローテンションで何をするにも「よし!」といふ気合ひ入らず毎日でれでれと無為な日々が続く。齢ひの所為もあらうが何かしようと思つても簡単なことでも取り掛かるのにやたら時間がかゝる。こんな時は気分転換に買ひ物に限る。ふと思ひついたのが前々から入手したかつた富士通謹製「親指シフトキーボード」。元々、富士通Oasis Liteでワープロに入つたアタシは親指シフト人間で二十年前なんてMac用の親指シフトキーボードも使つてゐたが、いつのまにかローマ字入力に慣れてはゐた。だがテープ起こしの速記のプロがやはり親指シフトキーボード愛用といふ記事を何かで見てMac派のアタシも仕事上どうしても1台はヰンドウズ機使つてゐるものだから、これのキーボードを親指シフトに替へることにする。晩に善光寺H氏からいたゞいた角居康宏氏(角居調教師の弟さん)の錫のショットグラスで飲むエスプレッソが美味い。岩波『世界』4月号読む。
▼岩波『世界』4月号の特集「アベノミクス破綻」はマイナス金利、住宅政策、社会保障、医療介護……と専門的な分析ばかりでついていけず。それに対して「分断社会日本」と題する紙上シンポジウムで、このシンポジウムじたいは参加者が皆、自分の分野の話ばかりでまとまりもなかつたが、これのために用意された松沢裕作と井出英策による問題提起「分断社会の原風景……「獣の世」としての日本」は冒頭から大本の出口なおの話から、で一読に値す。

外国は獣の世、強いものが勝ちの悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ……是では国は立ちては行かんから神が表に現はれて三千世界の立替へなおしを致すぞよ

明治日本について「政治指導者から一人ひとりの国民まで一致団結して「近代化」追ひ求めた、いわば価値観が共有されてゐた時代」といふ、このまるで司馬遼太郎的な明治のイメージ、もしこれが本当だつたら、そこに社会の分断は存在しなかつたことにならう、といふ。確かに。また江戸後期は商品経済の急速な浸透で民草もその経済システムに巻き込まれ「家」ごとの没落する危機に直面する。そこで勤勉、倹約、謙譲、孝行といつた「通俗道徳」が普及する。市場経済社会で失敗するのは勤勉といつた道徳の実践が十分でなかつた、と思はれる。経済的失敗者=道徳的敗北者の烙印押される社会。それでも自分が道徳的にもしつかり実践したにもかゝはらず失敗したとしたら自分が間違つてゐたのではなく社会に何か欠陥がある……と指摘したのが大本の出口なお。〈勤労〉は明治期、そして軍国主義下でも提唱され続け、さらに戦後の憲法でも「勤労は国民の義務」(27条)とされる。戦後の高度経済成長も所得増大により民草は「自らの責任で」生活の安定確保することが出来、社会に於ける「道徳的な敗北者」は極少数に止められ(幸運なことに)出口なおの宣ひ案じた「獣の世」は戦後は限定的にしか立ち現れず、それどころか先進国でも稀な平等主義的な(社会主義的な)国家が実現された。勤労者が仕事も私生活も楽しみが湧くこと。それがバブル崩壊後、高度経済成長の終焉ばかりか、それに追ひ打ちかけるやうに市場原理や競争、自己責任論が持ち込まれ社会主義的平等国家の幻想は消え「勤労の先に待ち構へるのは貧困のリスク」となり通俗的な勤労といつた道徳は民草にとり精神的負荷となり「努力の果てに没落する人々の悲鳴が社会を切り裂こうとしている」。「獣の世」の再来。今の日本は通俗道徳の実践に誠実にエネルギー費やした多くの失敗者で溢れ今やメディアを覆ひつくすのは自分より弱い者叩きのめす「袋叩きの政治」で強者への嫉妬のルサンチマン。社会的価値の共有は困難で連帯の危機を生じる。明治以来の「獣の世」の再来。近代のプロセスで幾度か既存の秩序が綻びを見せたが世界史的な人口縮減期に入り持続的経済成長が前提にならぬ時代=いわば近代じたいが終焉に向かふ時代。新しい秩序や価値を創造できるのか、或いは「経済的失敗が道徳的失敗と直結する社会を維持し叶わぬ成長を追い求めては失敗者を断罪する社会を再び強化するのだろうか」と。

世界 2016年 04 月号 [雑誌]

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