富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2016-02-20

正月十三日。晴。今週の残務処理済ませD君と待合せ深圳へ。深圳で今までに見たこともない清々しい天気。土曜日で交通量も少なければ広葉樹の茂る街路、広い歩道は本当に歩いてゐても心地よい。蕎麦人。向西路の通りすがりの按摩屋で按摩のほかに耳掃除。シャングリラホテルのチャンプスで香港から後続で来たお二人と合流でハッピーアワー。暗くなつて歩いて万菜屋。日本人の一番好きな洋食を肴に芋焼酎飲む。晩8時過ぎに国贸まで歩きバーPで日本語担当で聡明なギャル相手に二次会。本当になんでこんなに機転のきく会話ができるのか、と恐れチャイナの鬼子母神。酔つた勢ひで香港に戻り帰宅は三更半夜に至る。画像は万菜屋に貼つてあつた深圳の邦人団体主催の新年パーティの告知。なかなかベタなのが新鮮。
▼今月の歌舞伎座吉右衛門菊之助の「籠釣瓶」、朝日新聞の劇評(天野道映)より抜粋。

菊之助は遊女というより女というジェンダーを描いている。声も体も凛としているが、ふと目を伏せる時、心はやはり血の涙を流している。それは不義理を嘆くのではなく、我が身の不条理を嘆く涙である。廓は社会制度そのもの。女は男の欲望の対象としてではなく、なぜ自らの意志で人を愛することができないのか。

……これを一読して意味のわかる人がゐたら内容をわかりやすく教へてほしい。あたしにはこれがちっとも読み取れぬ。遊女ではなく女を演じる、はわかる。だが心で血の涙を流すのは遊女でも女でもあるわけで、この展開が先ずわからない。その上でその涙は(佐野次郎左衛門への)不義理ではなく我が身の不条理を嘆く涙だ、とするが八ツ橋にとつて我が身の不条理ゆゑの(佐野次郎左衛門への)不義理のはず。男の欲望の対象となることで美しいのが花魁で、花魁も自らの意志で人を愛することは(八ツ橋も)できるのだが問題は廓の制度でその望みが実現するかどうか、のはず。さうならば

菊之助の八ツ橋は遊女に限らぬ〈女〉というジェンダーを描いている。佐野次郎左衛門(吉右衛門)の前で女の強さで声も体も凛としてみせるが、ふと目を伏せる時、心はやはり血のような涙を流している。それは次郎左衛門に対する単純な不義理ではなく遊女である我が身の不条理を嘆く涙である。廓はあくまで花魁は男の欲望の対象であり自らの意思で人を愛せない。

といふことになるが、さうなると劇評としてはべつに特別なことまで言及できてゐないことになる。評者の見方が普通なのか、音羽屋の八ツ橋がまだ足りないのか。少なくとも大成駒の八ツ橋では、さうした廓の宿命だの次郎左衛門といふ八ツ橋に狂つた客との恋愛などといふ次元を超へた八ツ橋なるものが、その舞台に存在してゐたわけで、それを拝むものであつた。