富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

蛇口精神之父・袁庚

fookpaktsuen2016-02-03

農暦十二月廿五日。曇。神戸D君とFCCで仕事の話を済ませ、さっそく三鞭酒のGossetを早飲み。豪州のブッシュマンだつたか赤ワインで肉のパイなど頬張り軽めの夕食済ませ湾仔に行きバーMにD君お連れしてドライマティーニとニッカのカフェグレーンウヰスキー飲む。「カフェ」は珈琲?と思ふがCoffeyといふ人の名前で、この方が1830年頃に発明した蒸留機がコフィ式と呼ばれてゐる。

現在主流となっている連続式蒸溜機はアルコール精製度を高められる反面、香味成分までも除去してしまいます。一方、旧式で蒸溜効率が劣る「カフェ式連続式蒸溜機」の蒸溜液には原料由来の香りや成分がしっかりと残ります。それを熟成した後、モルトブレンドすると、貯蔵後にモルトの個性を引き出しながら新たな香りと味わいを生み出してくれるのです。ニッカウヰスキー創業者、竹鶴政孝がこの蒸溜機を導入した1963年当時としても“極めて旧式”でしたが、「本物のおいしさ」を求めた氏のこだわりだったのです。

とのこと。さらに三次会と銅羅湾のバーSでジャックダニエル飲む。半夜三更にお終ひ。我ながら本当によく酒を飲むこと。
▼“Vacancy rate in Hong Kong’ s Causeway Bay ground level shops seen hitting 10 per cent after Chinese New Year”とSCMPの記事(こちら)。銅羅湾とか路面で空き店舗が目立つなぁとは思つてゐたが空き店舗率1割超えだとか。家賃高すぎ店子も寄り付かず。何ヶ月も空けておくなら店賃安くしてさっさと貸せばいゝのに、と思ふが。銅羅湾のある店舗は店賃が月額80万ドルで店子が見つからず「店子見つかるまで」の暫定で家賃35万ドルで貴金属商が店開き←これはまだわかるが、ラッセル街60番地=賃貸料世界一の商業物件は大家の提示する月家賃は128万ドル!だが空いてゐるので旧正月前で月35万ドルで正月のお年玉袋売りの店が入ってゐるんださうで。貴金属ならわかるが一袋20〜30ドルのポチ袋売りで、どうやつてこの家賃と儲け捻出するのかしら。
▼深圳の蛇口を初めて訪れるまで蛇口は深圳でも羅湖から不便な最西端の開発区といふ勝手な印象だつたが、訪れてみると開発の整備の具合といゝまるで西海岸のやうな洒落た開放的な街並みといゝどこか中国の典型的なダサい都市化とは一線を画すコンセプトに驚いた。深圳市に属すが蛇口は日本でいへば昔の堺か、経済自治区のやうなもので、その都市経営するのが蛇口の招商局(こちら)。深圳特区の中でも蛇口の招商局は独自に外資を導入し経済成長続けコンドミニアム型の住宅地開発なども成功、外国人居住者も多く深圳の日本人学校も此処に。しかも日本人学校あることが日系企業の誘致につながると蛇口市内中心部の招商局の所有する区画に日本人学校を招致。全国的に反日感情高揚の際も深圳でも福田の公安局前でまでデモがあつても蛇口は平静保つ。この蛇口の工業区開発を招商局で実現させ、招商銀行等企業の創始者が「袁庚」なる人。その方が享年98で逝去。1980年代に蛇口開発で経済改革成功させ香港で「金紫荊星章」授けた唯一の中共省部級高官。所謂「党幹部」ではないので訃報も新華社レベルでは出なかつたが地方媒体やネットメディアでは訃報掲載少なからず。1984年に蠟小平が蛇口工業区視察の際に状況報告したのがこの人で改革の重要なプランナーだつたが1989年の天安門事件では党中央の決定に批判的な立場をとり「要観察」にされたといふ。この袁庚の元の名は歐陽汝山で深圳龍崗の出生。国民党中央軍校の廣州燕塘分校に学び1937年の七七事変後に抗日運動と中共の東江縱隊に加はり1942年の香港陥落後は香港から抗日愛国分子救出に尽力、1945年には東江縱隊の香港オフィスの代表(後の新華社香港分社)。1949年には党中央軍情部の配属。1950年にはベトナムホーチミンの顧問、1953年には中共インドネシア大使館の領事。諜報活動に従事したさうだがバンドン会議に向かふ周恩来の飛行機を国府が撃ち墜とし周恩来暗殺図る計画を事前に入手し周恩来の旅程変更で助けたのもこの人の功と聞く。文革で失脚したが1978年に中共が香港に招商局を設立し、ここに赴任、1979年に蛇口工業区開発始まり上述の1984年の蠟小平視察に至る。その後は招商銀行、平安保險の設立に加はり「蛇口精神之父」と称賛されるのも納得。