富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

桃花源嘅炒飯

fookpaktsuen2016-01-07

農暦十一月廿八日。曇。早晩に冷蔵庫に冷やした三鞭酒はルイナール持参で上環。少し時間ありCafe Nirvanaで啤酒一杯飲んでから桃花源に。麻布箪笥町A氏家族の香港での一家団欒に混ぜていただきH嬢、S嬢、華人と酒豪で夕食会。高知の美味い酒振る舞はれる。S嬢持参したRhôneのDomaine de GrangeneuveはTerre d’Epicesといふ赤の2011年、グルナッシュとシラーズ(50:50)で美味い。この桃花源かなり馳名の食肆だが私は初めて。じつに上品。美味。炒飯は私が今まで食べた炒飯の中で最も洗練されて昇華してゐるもの。もはや炒飯ではない形而上の食感。
銅鑼湾書店経営者らの失踪で香港で中共関係暴露本の販売見合はす書店や新聞スタンド増え香港の出版言論の自由が危ぶまれ禁書的な空気漂ふ。陶傑兄がそれを嗤ふ(こちら)。

所謂「出版禁書、應有此報」之說,是許多香港「基層市民」對英式的法治精神的認知缺陷。講起法律,中國人最先想起「王法」。他們不明白英式的法律,由人家的大憲章開始,首先就是約束帝王的。
然後,英國的法治精神,指整個體系,而不是哪一章、哪一條,英國的公民精神,也不分行業,是一個整體。中國人的小農生活,耕種的耕種、打鐵的打鐵、在妓院扯皮條洗腳的歸「服務行業」,所以,會計師開會計師行、商人開金舖奶粉店、食肆老闆開快餐店、的士司機開計程車,一講到「佔中」,都會責難大學生,說「阻住我做生意」。
出版禁書,香港許多中國人視之為「一行生意」,不當做跟他也有切身關係的「出版言論自由」,因為他們的生意,與言論和出版沒有關係。抓的是他們,不是我,而且,只要我經營食肆,不會抓我。

中共に対しても歯に衣着せぬ発言多き陶傑の文章が発禁になるやうな時代がくれば、それは確かに大変な時代になるが。
朝日新聞に作家の中村文則君の寄稿「不惑を前に僕たちは」(こちら)がストレートで良い。「言論人たるもの、なにかひとひねりしたことをいわないと恥ずかしい」といふやうな気兼ねのない(築地H君の弁)ストレートな発言。
僕達は今、世界史の中で、一つの国が格差などの果てに平和の理想を着々と放棄し、いずれ有無を言わせない形で戦争に巻き込まれ暴発する過程を目の当たりにしている。政府への批判は弱いが他国との対立だけは喜々として煽(あお)る危険なメディア、格差を生む今の経済、この巨大な流れの中で、僕達は個々として本来の自分を保つことができるだろうか。大きな出来事が起きた時、その表面だけを見て感情的になるのではなく、あらゆる方向からその事柄を見つめ、裏には何があり、誰が得をするかまで見極める必要がある。歴史の流れは全て自然発生的に動くのではなく、意図的に誘導されることが多々ある。いずれにしろ、今年は決定的な一年になるだろう。
佐伯啓思先生の朝日新聞連載(異論のススメ)で18歳選挙権と民主主義について「主権者教育という前に」(こちら)。 
われわれは無条件に民主主義は国民主権だからすばらしいと思っている。そして国民の意思を示すのは「世論」であり、政治は「世論」に従うべきだという。「国民の意思」が政治を動かすべきだという。しかし、そもそも国民の意思などというものはどこにもない、「世論」も多様な意見の集積を統計化しただけのことだ。つまり「主権」という言葉はたいへんに危うい言葉である。そのことを「主権者」であるわれわれは決して忘れてはならない。