富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

Mio,再見 !(劉健威)

fookpaktsuen2014-11-24

農暦十月初三。快晴。朝イチでS女史と空港へ。空港のHSBCで女史の銀行口座解約手続き。九月に本人が在日で香港にゐないが必要書類に署名して指示書のレターも用意して解約手続き始め他に何これが必要と担当部署の行員から電話まであつて進めてゐた手続きなのに2ヶ月経つても日本の銀行に送金がなく今回、窓口で「どうなってゐるの?」と本人が確認するとコンピューターの記録上はまだ口座開設されたまゝで何の手続きもされてをらず。銀行とやりとりのレター見せると窓口の職員も首傾げるだけ、で兎に角こゝでもう一度手続きを、って大銀行の粗忽も怖いところ。一寸確認、のつもりが手続きし直しで網上で搭乗手続きしてゐたから善かつたが那覇へのフライトも刻々と迫り書類記入済まぬ内に「必要な書類に先に署名だけさせて」と無理強いして厭ふ行員説き伏せS女史だけ20分後に!搭乗開始のフライトに急ぎ「息子だ」と偽証のアタシだけ残り30分後にやっと手続き完了。早晩に久々に一人で北角の寿司加藤。赤貝とコハダの刺身。酒を飲んで赤身三カン握つて貰ふ。これだけ。我ながら上品。でコップ酒(といっても大ぶりの焼酎グラスだつたが)並々二杯で帰るつもりが帰りがけに冷凍のウオツカ供され酩酊。
▼劉健威兄が綴る信報のエッセイ「Mio,再見!」一読し不覚にも涙。Obituaryといふもの、かうあるべき、といふ内容。未央さんの写真も元気だつた頃の素敵な笑顔。それに比べ日本の新聞の死亡記事で使はれた写真のなんてひどいこと。

羽仁未央於十八日在東京去世了,死因:肝硬化。
香港朋友聞訊,只有唏噓―這幾年看她一步一步一走上絕路,卻不能幫上什麼。
她接受不了現實,現實也接受不了她。
一代奇女子。祖父羽仁五郎是日本參議員,也是最早的社會主義者;父親羽仁進是導演,生母左幸子也是導演兼演員。她小學四年級就輟學,隨父親到非洲拍片,之後就沒接受過正規的學校教育;除了抗拒學校教育,她也不喜歡日本――每次回日本,飛機着地,她不由流淚。一九八七年移居香港,和攝影師本田合作,製作了不少紀錄片,向日本報道香港回歸前的狀況;之後移居新加坡,過去數年往返港日之間。
世上大部分人,無論願意不願意,都接受學校教育。但總有一些人是抗拒學校教育的,羽仁未央就是這種叛逆者――日本有個協會專門幫助拒絕學校教育的人,未央是義工,經常去探訪和幫助這類反叛的青少年。
特殊的成長經驗,形成未央獨特的人生觀和價值觀,不同於流俗。
她待人善良慷慨,永遠將美好的想像投射在每個人身上;在她眼中,世上好像全無壞人似的。我從來沒聽過她說別人的不是。
對於事物,她常抱樂觀,總有無數新意念,也因而帶來新的希望――但能落實和實現的,卻不一定同樣的多。
有一次,新井一二三跟我說:「我什麼都批評,好像很悲觀;Mio什麼人和事都肯定,好像很樂觀。但我總覺得,她比我更悲觀。」
當時我不太理解新井的說話,但多年後的今天,我終於明白了――當未央將過多美好的想像投射於人和事,這何嘗不是以另一種形式來否定和抗拒現實?未央是用微笑來拒絕這世界,而非憤世嫉俗。
現實當然也接受不了她,過去幾年,她事業停滯,和父親的關係也不好……終把生命託付給酒精。
願她在天上和另一位好朋友把酒共歡。

と余すところなく羽仁未央といふ人の背景、人生、思想、魅力、弱さまで語る筆致。かりにこれを和訳してもダメなのは、日本語にすることで漢字平仮名交じりの文体に隙間生じるためで漢文の、この無駄のない文字の並びだからこそ、の文章の美しさよ。それにしても未央さんのことを新井一二三さんが劉健威に語つた、といふ

私は何についても批評は出来ても、いつもとても悲観的。それに対して未央といふ人は誰のことでもどんな事でも肯定してみせ、まるで楽観的なやう。それでも私は、彼女は私よりずっと実は(世の中に)悲観的なのだ、と思ふ。

この一言が羽仁未央といふ人を本当によく言ひ当ててゐる。さすが。今にして思ふと九十年代の前半、香港に未央さん、一二三さんなど個性的で本当に憧れる方たちのゐたもの。未央さんは香港返還の現地からの中継番組をプロデュースし、一二三さんは返還のとき日本のテレビ番組に出演してゐた。あゝした方が香港を去つて、そのあと香港であんな素敵な日本人に会ふこともない。