富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2014-06-28

農暦六月初二。快晴猛暑。酷暑警報出てゐるのにかなり久々に西貢から北潭涌。我ながら呆れるが呆れた面子でトレイル。それにしても肌が灼ける。ふら/\。熱中症も厭はぬアホな一向に一人、安徽省出身の若者あり。夏のトレイルだといふのにポロシャツに半ズボン、町歩きのスニーカーで手ぶら。おい/\。西貢でせめて水はペットボトルで買ふやうに、と勧めアタシはアウトドア用の日傘持つてゐたので、せめて、とサングラスと帽子貸してやる。するとMcLehoseの2段で西灣山の上りになつても安徽君全くペース落ちず、それどころか上りも速い。汗もアタシらに比べたらあまりかいてゐない。ヘト/\になりながら「お見それしました」で話を聞くと故郷は安徽省でもかなり山村で毎日、家から町の学校に通ふのに山を下り、夕方は山を上り、で西灣山の320mだかは大して驚かない、といふ。「でも、この暑さは」と言ふと安徽省では冬は雪、夏は摂氏40度の酷暑で香港は海風が涼しい、といふ。脱帽。西貢に戻り、いつもの全記海鮮(奥のほうの分店)に飰す。海鮮選ぶのに、つい安徽君と普通话で話してゐたかしら、いつもより、とくに高価な海鮮を食べたわけでもないのにかなり高め。大陸漢相場といふのがあるのかしら。晩はくた/\で冷や麦茹でて飰す。NHK-FM片山杜秀の「クラシックの迷宮」土曜晩に出かけてゐること少なからず聴く機会逸するが今晩は生誕100年で早坂文雄の特集。弦楽四重奏曲(1958年)ラモー還元四重奏団の演奏はさすがNHKアーカイブス(昭和の終はり頃、神南に日参してゐたが仕事のフリして、よく図書館とアーカイブスでは趣味でお世話になりました)で、しかし次の早坂、佐藤慶次郎、武満と鈴木博義の「現実音と音楽による交響詩“音の四季”」は1955年(テレビ放送の始まつた2年後)の今では考へられないやうな前衛作品で、これがNHKの放送開始30周年記念特別番組で流れたといふのだから驚き。最後は映画「七人の侍」から早坂作詞作曲の「侍の音楽」で歌は山口淑子。いゝねぇ、この曲。
朝日新聞オピニオン欄で石川健治憲法学、東大教授)の「いやな感じ」の正体」が面白い。高見順の戦後の小説「いやな感じ」から。戦前の左翼が転向すらする満州事変から始まる戦時中の「いやな感じ」は屈折ではあるが敗戦はよつて解放され「いやな感じ」を封じ込めるのに成功したのが日本国憲法の最大の貢献であつた、と石川教授。その「憲法」が昭和初期と同じく再び「危機」口実に「国民の手から最も遠いところ」で変えられやうとしてゐる。一昨年の今頃は晋三は憲法96条改正の大義名分として「民意」に問ふと宣つたのに96条改正反対が民意だとわかると今度は政府の解釈変更で済まさうとする。集団的自衛権では(憲法学者ばかりか)安全保障の専門家たる自衛官僚OBからも否定的意見があるのに対し推進派はアマチュア湾岸戦争で戦費支出しても評価されぬことがトラウマの外務省、実際の危機とも安全保障とも関係のない判断ばかり。「この「いやな感じ」の源泉は複合的であるが、そこに〈個の否定〉と〈他者の不在〉が含まれている」といふ。のは、間違いない。憲法13条後段の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」まで持ち出し集団的自衛権行使すれば、それが守れると嘯く晋三たち。だが、問題はそこに〈個の否定〉のあること=13条「すべて国民は、個人として尊重される」が自民党憲法改正案では「全て国民は、人として尊重される」。

この〈個の否定〉は、同時に、〈他者の不在〉ともセットになっている。元来、基本的人権の保障とは、個々人に一人一人違う生き方を保障するために、権力を〈他者〉と捉えた上で、その介入を排除するものである。裏からいえば、〈個〉としての国民が、この政治社会において内なる〈他者〉として生きることを許容するために、国家の側が自分自身をしばることによって成立している。これが立憲主義の標準装備であることの意味を、自民党改憲草案は軽んじているのである。たとえば政治社会が中央集権化して「主権国家」というかたちをとる場合には、統治権力が暴走しないよう、政府に対抗できるもうひとつの権力を用意する、という方向で権力分立制が活用される。この文脈で「政府に対するコントロール」が強調される。ここにコントロールとは、コントラ・ロールすなわち〈対抗・役割〉が原義であって、議会なり裁判所なりに、政府に対抗する役割を与えるのが主眼である。つまりこの場合にも、統治権力に内なる〈他者〉を用意することの重要性が強く意識されているわけである。(略)価値観を異にする〈他者〉と共存する道を選ぶか否か。そうした文明論的な選択を含む以上、それは性質上、専門知で正解を出せる問題ではない。したがって、有識者懇談会の答申や与党政治家たちの合意で決めてよい問題ではない。ふさわしい手続きは、やはりレファレンダム(憲法改正)であろう。少なくとも、一内閣による閣議決定でないことは自明である。

と。御意。しかも自民党の歴代の内閣が誰もできなかつた、これほどのことが(それだけ歴代の自民党内閣はまだ優秀だつたのだが)自民党史上最低最悪の晋三の内閣で閣議決定で済まされてしまふのだから。日本の政治がなんて脆いことか。結局のところ「いやな感じ」が敗戦といふ<負>で以て齎されたことの代償なのかしら。