富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2014-06-09

農暦五月十二日。昨日午後の霧霾やはりかなり深刻だつた由。尖沙咀でも100mほど先の高層建築霞んでゐたし。それが夜半の雨で今日は改善。晴れ。近々巴西で開催の蹴球W杯に賭ける。スポーツ無知のアタシは蹴球の規則すらよくわかつてゐないのに1998年から仏蘭西巴西、意太利と3大会連続で優勝を当て転がしの配当もかなりの額で全額を2010年、葡萄牙に賭けたところ1回戦で西班牙(優勝)に1−0で惜敗。今回はご祝儀で優勝は開催国の巴西、決勝戦巴西対西班牙に賭ける。早晩にかなり久々の平日ジムで5kmだけ走り帰宅。
桂宮薨去桂宮邸に両陛下始め皇族方続々と弔問。やはり高齢で三人目の息子に先立たれた三笠宮が不憫だが、さてこの桂宮邸。あまりピンとこないが千代田区三番町で千鳥ヶ淵の近く、内堀通りのこゝは御仮寓所で正式には宮内省分室。千鳥ヶ淵でも皇居の堀に面して、戦没者墓苑の北、鍋割坂にある立派な屋敷は宮内庁分庁舎。千鳥ヶ淵戦没者墓苑はかつての賀陽宮恒憲王の宮家で、この分庁舎の場所が二二六事件で襲はれた鈴木貫太郎侍従長公邸の跡、明治のころは宮内大臣公邸。かつてのフェアモントホテルの向かひ。さて、桂宮の仮寓所となつてゐる宮内庁の敷地は戦後、宮内庁分室となるまでの因縁はアタシも知らないが宮内庁分室として皇族の宮家の改修等仮住まひに使はれてきたが周囲にオフィスビルやマンションなど高層化も進むなか昭和63年初春に桂宮家創設となり、この分室が宮邸に。それがその年の五月桂宮宮邸内で意識不明で(病名未公表)倒れてゐるところ職員発見し、その後平成に入つての闘病生活。桂宮邸で「お舟入り」(入棺)まで済ますが手狭で赤坂離宮三笠宮東邸で斂葬の儀までのお弔ひ続けるといふ。喪主は三笠宮様で高齢のため彬子親王が代理務められる由。彬子女王といへば、この三笠宮東邸はかつての寛仁親王邸で女王にとつては幼い頃からのお住まひ。寛仁親王(ヒゲの殿下)お亡くなりになり親王妃(信子さま、麻生漫画太郎の妹君)も宮邸離れられ親王家の存続困難と判断され彬子、瑶子の女王お二人は(母君と一緒に)祖父の三笠宮家に入られ寛仁親王邸は三笠宮東邸となつたもの。以上、覚へ書き。