富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

再見。

fookpaktsuen2014-05-18

農暦四月二十日。暗い雲が空を覆ふが霧雨程度。今日も官邸で書類整理。早晩帰宅途中北角街市に寄ると階段で雨凌ぎフィリピン人の家政婦が日曜休み友だちで愉しそう。

七日は汝の神ヱホバの安息なれば何の業務をも爲べからず汝も汝の息子息女も汝の僕婢も汝の家畜も汝の門の中にをる他國の人も然り(出埃及記 第20章10)

▼他人の文章の揚げ足取りはしたくないが今日、日曜の朝日「日曜に想う」は香港駐在の山中李広・特別編集委員「你好 漢詩・漢文・中国語 再見」と題してゐるので「やはりこの企画1年余で終了か」と納得。とにかく、この紐育、倫敦、香港と東京結ぶ「特別編集委員」のリレーエッセイは書き手の記者が遊軍で「経費ばかりかゝる」上に内容も四人とも今一つ。なので「再見」の二文字に早合点したが、一読すると、まだ続くらしい。山中君曰く香港に駐在して1年になるのに広東語が一向にわからない……と始まり広東語と中国語(普通話)、香港での中国語の威勢、日本人にとっての漢文……と「日曜に想う」らしくエッセイで無難に語るのだが、アタシが何が言ひたいかといへばタイトルもさうだがエッセイの最後も「再見。」と、いくら中国語に明るくないとはいへ記事の最後で淀川長治の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」ぢゃないんだから「また来週」のつもりで「再見」は良くない。何とも説明が微妙だが「再見」は別れの言葉、確かに翌日会う場合も「再見」と言葉交はすが連載エッセイの最後で「再見」は違ふ。築地でも連載休止すべきでは?の声も(殊に、冷遇されてゐる中年の記者の間で)あるとか、ないとか。連載休止といへば、たか/\漫画『美味しんぼ』鼻血舌禍に口挟みたくもないが、あの内容で出版した上で発行元・相賀武夫の小學館の「表現のあり方見直す」の及び腰が情けない。更に12日発売号の発売前に環境省にゲラ見せてゐた由(朝日)。なんとも黙つてゐても下々よりお上に検閲願ふ、この民度の低さは何とも美しい日本なり。「美しい日本」といへば晋三の集団的自衛権の説明(15日)は稚拙。幼い子連れた「日本人の」不安にかられた表情の母親(……これは日本人でもアフリカ人でも本来、同じはずなのだが)の描かれたパネル見せながら

現在、アジアで、アフリカで、たくさんの若者たちがボランティアなどの形で地域の平和や発展のために活動をしています。この若者のように医療活動に従事をしている人たちもいますし、近くで協力してPKO活動をしている国連のPKO要員もいると思います。しかし、彼らが突然武装集団に襲われたとしても、この地域やこの国において活動している日本の自衛隊は彼らを救うことができません。一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受けても、日本の自衛隊は彼らを見捨てるしかないのです。これが現実なのです。皆さんが、あるいは皆さんのお子さんやお孫さんたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか。内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。

……って、なんだ、こりゃ。再見。少なくても、湾岸戦争のときに英米仏の対応の見事さと日本政府の為体見せつけられ、311の核禍でも日本の緊急対応の緩さもあり、アタシは緊急時に海外で「日本政府に頼ろう」とは微塵も思はぬが(米国が一番)、豊下楢彦といふ国際政治の先生が書いてゐるが(「使えない机上の空論」16日の毎日?)集団的自衛権行使といふのは事実上「軍隊として戦争する」ことで限定的行動といつても国際法上は戦争。かりに中国が越南侵攻し越南から日本に支援要請があつたら:拒否すれば中国は日本の弱腰を嗤ひ晋三のいふ集団的自衛権の「抑止力」も、その瞬間に効力失ひ逆に越南を軍事的支援せば中国と戦争状態に入る。(その覚悟があるかどうか:富柏村)このときの法的な重大な問題を豊下先生は指摘する:多くの国で開戦規定や交戦規定が憲法等で規定されてゐるが日本にはそれが無い。本来なら憲法改正して国防軍組織し戦争に臨むべきところ机上の議論で集団的自衛権だけ先行で解釈変更で行使容認しようとするから、こんな根本的矛盾が露はになる。「日本は軍事主義に走るのではなく尖閣問題も含め海洋における地域的な危機管理体制構築に主導権発揮すべき」と。御意。