富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2014-04-22

農暦三月廿三日。薄曇り。日本の貿易赤字は最大の13.7億円。貿易大国で黒字を米国に叱られてゐた頃が懐かしい。今週末で銀座の三原橋地下街閉まるといふ。最後に訪れたのは何年前だつたかシネパトスで大島渚『御法度』見たとき。昭和のころに断片的にいくつか記憶に残ることあり。出先から早晩に帰宅。独酌。ステキなドライシェリーのやうだが実は湖北省の黄酒。うどん煮て飰す。
商船三井の船舶が戦時賠償のため中国で差し押さへ(こちら)。これも「反日」で片付ける前に少し勉強。上海で陳順通といふ商人が1930年に興した中国初の民族資本の海運会社が中威輪船。4艘の船舶のうち2艘「順豐」と「新太平」を1936年に日本の大同海運(今の商船三井)と1年の租賃契約(リース)結び貸出し。ちなみに董建華の父たる董浩雲はこの海運会社で陳順通の助手だつた由。「順豐」は当時、中国最大の貨物船。それが日中戦争勃発で民間船舶が軍の徴用となり外国船舶であるこの2艘も無償徴用され1944年に沈没。1974年に日本で損害賠償求めたが敗訴。1988年に上海で20億元の賠償求め提訴が(中国にしてはかなり判決まで時間がかゝり)2007年に勝訴し29億元の賠償を商船三井に命じ被告側上訴したが認められず2011年に賠償の執行通知書も発せられてゐた……それが今、船舶差し押さへ。背景も経緯もいろ/\あるが中国初の民族資本の船舶会社の最大の貨物船が侵略国の軍用に徴用され……といふのは民族的には痛いだらう。
▼近々開通のMTRの港島線の西行き。港島線のホームでかなり評判悪い一連の站名書法が「堅尼地城」(ケネディタウン)でも話題に。「堅尼地城」の「堅」の字が「坚」なのが殘體字=大陸の簡体字だらう、と愛港社中が苦言。だが劉健威兄の指摘する通り、これは単なる草書体。健威兄は寧ろ「堅」の「土」が大きすぎたり「地」字的彎拗得太窅害,「城」字的戈又頭重尾輕……と全体としてダメと。御意。
▼今日の朝日のオピニオン欄「消費される物語」で高村薫さん(こちら)。長いけどとても大切なコメントなのでそのまゝ引用。

物語は人間が生きていくうえで必要なものなのです。私たちの国、私たちの王、私の家族、これらはすべて物語です。物語の特徴は、自分たちが見たいもの、好ましいものを取り入れる一方で、見たくないもの、不都合なものは排除することができるところにあります。つまり虚構です。私たちは物語という虚構を消費しながら生き、社会は虚構に支えられて維持されているのです。ですから、今日さまざまな物語が次々と作られているのはそれほど不思議なことではありません。ただここへきて、その物語の作られ方が年々過剰になっているのは、「私たちの社会」という物語が揺らいでいるからでしょう。例えばグローバル世界では、人やモノの自由な往来が国境をなくしてゆくだろうと予想されていたのに、実際には世界のあちこちで「私たちの国」という物語が不安定になって、その穴埋めのために過剰な物語が生まれています。ナショナリズムの台頭もその一つです。社会不安が増したり、経済状況が悪化したりして、人びとが自信や幸福感を失うとアイデンティティーも揺らぎます。それを補うために、ことさら物語を増幅させているのが今の世界です。これまでと大きく方向性の異なる安倍政権が誕生したのは、新しい物語を語ってくれそうだという期待が有権者にあるからで、それが高い支持率の正体かもしれません。日本では、戦後続いた経済的な繁栄という物語が崩れた後、社会をまとめる物語がなかなかできません。1990年代以降は、心の余裕がなくなって、物語がより内向きになっています。人は誰でも、より心地よい物語のほうに引かれます。でも、私たちの社会にはかつて、本筋を外れてはならないという暗黙の了解というか、節操があったと思います。明るい未来が見えているときには、外に向かって積極的に開いていくことができたのですが、それができなくなってしまった。将来への不安がのしかかっているなかで、私たちは小さく閉じた身近な物語に癒やされているわけです。(略)物語は自ら完結する性質があります。つまり物語の外を遮断して閉じているということですが、この閉じた物語をあえて開いて、外にまなざしを向けるのが人間の進歩というものだったと思います。けれども、物語を外に向けて開くことなく、心地よい物語を作っては消費して、飽きたら捨ててまた新しい物語を作る。その繰り返しでは社会の進歩はありません。阪神と東日本の大震災は、「喪失と癒やし」といった小さな物語として消費されてしまいがちですが、本来「自然と文明」という大きな物語の方向に開かれるいい機会でした。人間の文明など、自然の力で一瞬にして押し流されることがある。そう気づいた以上、「私たちとは何者か」と語りなおすことによって、内向きの物語が外に向かって開かれる可能性があったのですが。結局、「復興」という美名を冠したあまたの物語にのみ込まれてしまっています。