富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2013-02-25

農暦一月十六日。晩にNHKのNW9眺めてゐたら対米外交につき外相出演が実に30分。徹子の部屋か。キャスター女性は「安倍政権の外交、かなり活発に動き出してゐますね」とヨイショも呆れるばかり。有吉佐和子について新宿のバーCのご亭主がブログで有吉佐和子にゾッコンと書かれてゐて、考へてみれば迂生、佐和子は一篇も読んだことなし。Z嬢はほとんど読み何冊か文庫本もあるといふので読んでみることにする。
▼「必要な体罰もある」という日本社会特有の精神論の内実は、暴力を受ける側の思考停止と服従だけであり、それを規律や結束と言い換えてきたのは集団における権力の側の詭弁にすぎない。(高村薫、都新聞・社会時評)この発言読み大西巨人神聖喜劇』の物語思ひ出す。
▼晋三のTPP交渉参加表明。朝日新聞の呆れたTPP支持に対して都新聞の「日本「成果」合作でシナリオ」(今日の朝刊社説)が興味深い。TPPに関する日米共同声明について「声明の内容は従来の米国の基本姿勢とほとんど変わらない。日本が「勝ち取った」演出をして参加に道筋をつくるための日米合作のシナリオに沿った展開だった」として「実はこの合意は米国側から見ると譲歩ではない。米国は「全ての関税撤廃の約束」までは求めていない。(略)要求していないことを、さも米国が要求していたかのように見せ、柔軟姿勢を引き出したように見える。反対派を納得させて参加に踏み切りたい外務省ら日本側と、日本産かを後押ししたい米国の利害は一致していた。」だってさ。
▼小野田正利・大阪大学大学院教授の「本質矮小化、ツボもはずした体罰禁止論」(時事通信社「内外教育」二月廿八日号)より。本来、生徒指導、教科指導、部活動でも体罰禁止を徹底する必要があり、体罰が人権侵害行為なら「学校という場からあらゆる暴力行為そのものを排除する宣言に向けての行動提起がなされるべき」であるのに「橋下市長の派手なスタンドプレーによって、全てが中途半端になるだけでなく、部活動のみに矮小化されつつ、常に本質的問題が隠され続けていくというのが、今回の桜宮高校をめぐる事案の最大の問題点ではないのか。これまで体罰問題の多くの犠牲者たちが、そしてその当事者たちが痛恨の思いで願っていることは、あらゆる場面でのあらゆる暴力的人権侵害行為の排除ではないのか。ツボもはずれ、本質的問題もはずれていくことに、憤りを覚える。(略)大阪ではこの間にも、数々の人権無視の思想調査と入れ墨調査の強行と処分が行われてきた。派手は見せかけの社会正義を主張する橋下市長の背後に、同時並行で多くの人権侵害の事実がある。社会のなかでいかなる人権侵害が起きているか、その丁寧な洞察や反省がないまま、市長の体罰施策だけが強行されていく危うさがある。」
▼香港の西九龍開発区に出来る中国劇専用の劇場「戲曲中心」(仮称)の英語名が「Xiqu Centre」(戲xi 曲qu)であることについて香港で拼音そのまま英語名が受け入れられず、なぜChinese Opera Centreとガイジンにも解り易い名にせぬのか、Xiquでは「屎渠中心」「屎橋中心」「死豬中心」更には「私處中心」だ、と罵詈限りなし。これに対して音楽評論家の周凡天氏が「オペラ=歌劇」こそ西洋の音楽劇形式で中国でも近代にオペラ形式で創られた『中山逸仙』とか昨年の香港歌劇院演出の『趙氏孤兒』ならChinese Operaだが伝統的なシナ劇はそれに非ず、と。そも/\昨今、交響曲でも協奏曲でも器楽曲を「歌曲」と云ふ風潮あるが英語でも交響曲ソナタを Song とは呼ばぬはず。で「戯曲=Xiqu」の話に戻ると寧ろ何でも英語にすることのほうが文化帝国主義で「二胡」はChinese Violinに非ずErhuで、「功夫」はChinese Boxingに非ずKung Fu、「點心」は「Dim Sum」,壽司はSushi、刺身はShashimiだ、と。
現時部分港人神經緊張,事無大小都將之「政治化」,上綱上線,鬧爆特區政府「媚共賣港」,「迎合強國人的惡俗品味」、「毀良幣推劣幣」,反映部分只懂口中叫「法治」,對「文化」、「學術」一知半解,一切都只是「求求其其」的港人心態,這實在無助香港的文化發展,實非香港之福,難道西九真的中了政治毒咒?!
と。これはご指摘の通り。