富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

同性愛と異性愛

fookpaktsuen2012-03-06

農暦二月十四日。湿度98%だかのまゝ気温摂氏27度まで上がる。不快極まり無し。千葉A氏来港にて早晩に銅鑼湾East EndにてK氏と鼎談で麦酒二杯。屋外の酒場で喫煙者に賑ふ。ビルの樓上は高級マンションで住民は喧噪と煙草にさぞや不満だらう。A氏をばホテルまでお送りして「まだ帰るには早い」とバーBに独酌。ドライマティーニ二杯。帰宅して夕餉。恐ろしく眠くて二更の内に寝入る。
▼昨日さら/\っと読了の風間孝・河口和也「同性愛と異性愛岩波新書。著者が「はじめに」で「おそらく二〇年前ならタイトルに「同性愛」とついているだけで(いや、もしかすると「異性愛」というタイトルでも)その本を購入することはおろか手にすることもはばかられるようなこともあっただろう」と書いているが、確かにそれも青土社とかならともかく岩波新書で、である。しかも著者が「本書は私たちの体験や出来事を中心にするがゆえに「同性愛」を扱っているとはいっても、やはりレズビアンに関する記述がほとんどできなかったことをお断りしておかなければならない」なんてコメントも素敵。「同性愛」に関する初心者のための入門書みたいで内容は平易。一つ気になつたのはエイズパニック(第一章)で エイズ=肛交=ホモの病気 といふイメージが流布されたことで、実際に同性愛者のエイズ感染は異性愛者より多いのだが、著者はその理由として

  • 同性愛者がエイズに関する知識や情報が異性愛者より多く与えられており抗体検査を受ける機会が多いことで可能性が高いという理由も推測できる。だが、そうすると予防行動がきちんと取られていない、そうした効果があまり上がっていないことになる。

といつた推考をしてゐる。興味深いが、それより驚いたのは

例えば、同性愛者がセックスする場ではセイファーセックスのことを切り出しにく状況がある。なぜ切り出しにくいかといえば、差別や偏見に囲まれているなかで同性愛者にとって出会いの機会というのは貴重であるので、もし好みの相手に出くわし、首尾よくセックスする場面になったとき、コンドームをせずにリスクがともなうセックスでもするほうがいい、と考えるのである。

といふ、この記述には正直いつて驚いた。そんな、マイノリティだから「いま、このチャンスを逃したら」で、限られた環境ではコンドームができない、なんて……。さういふケースもあらうが、アタシは廿年も前にセクシュアリティ文化人類学で学んだこともあるのだが、寧ろ「同性であるがゆゑ」の「出会ひ」の日常性、そして「マイノリティであるがゆゑの」乱交性と連鎖性があるのではないか、と思ふ。前者(日常性)は、同性愛者は同性の場、男子校、軍隊、トイレ、風呂やサウナ、更衣室……等、男女が区別される場で男性だけになる場、それも多くが脱衣を伴ふ場があり、異性愛者には何でもない場が彼らにとつて出会ひの場と化すこと。男女が一緒であつたら困ると思はれる場が男女別にされるのだが実はその発想こそ同性愛を育む場であること。さうした同性だけの場こそ実はいくらでも日常にあり、而も裸であつても同性が二人でゐても一般的には不自然ではない場であり、さういふ場は最初から性行為がされることがない場であることがヘテロ的には盲点(余談だが、そんな場所だからコンドームなどあるはず、または携帯してゐるはずもないのでは?)。異性愛は男女の出会ふチャンスこそ多いが、さう簡単に裸にはなるまひ。同性愛者は異性愛者よりかなり少ないが、お互いが同趣であれば「ムラ/\とする場」は多いはず。そして後者(マイノリティとしての乱交性と連鎖性。)は同性愛者にとつての乱交の機会は、異性間で乱交パーティを開く、それに参加する可能性よりずつと高いのではないか? 異性愛の場合、それは「異常でない」とされることで乱パ好きの好事家でもない限り異性愛者で集る必要はないが、隠れた場所があるから集つてしまふ同性愛者は同趣の輩が性行為目的に集ふのだから、それがゲイサウナ、公園、トイレ……何処でもいゝのだらうがハッテン場では乱交になつても必然的?かも知れない。連鎖性は説明するまでもなく、アタシは高校生のときにギリシアの同性愛だつたかギリシアの発掘された壷に描かれた絵を見て強烈な印象を得たが男性が肛交をする、されるでエンドレスにつながる圖。だがよく考へてみると小学生でも男子は巫山戯てそんなことをしてゐた気もする。この異性愛者にはあり得ぬ連鎖は肛門性交といふものの「もののあはれ」を感じ入る。

同性愛と異性愛 (岩波新書)

同性愛と異性愛 (岩波新書)