富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2012-03-04

農暦二月十二日。多湿。濃霧。日曜だがこのまゝでは明日の月曜がきつと大変忙しくなると怯へ朝から官邸でご執務。午後早く終へてジムに行く津守が結局、午後遅くまで。湾仔。今年も今月下旬より香港国際映画祭だがあたふたとする日々にカタログの配布もネットでの先行予約も知らぬうちに時が過ぎ気がついた時にはすでにネットではいくつかの人気作品は先行予約満額。いずれにせよアタシのこの映画祭に対する興味も十年近く前なら六十数本!見てゐたのが、日に七本見たことすらあつたのがこゝ数年は上映される作品に食指動くも少なく年々鑑賞する映画の数減り今年は遅ればせながらカタログ見てもせい/\四、五本見るか見ないか、の興味。たゞどうしても見たい数本はネット先行予約満額ながら閉口して郵便でも申し込みもあつたのだが、そこまで注意も向かず、その締め切りが昨日三日土曜で、この日に投函すれば五日までに届いた分は処理されるらしく、それも昨日までは市大会堂と尖沙咀の文化中心に専用の投函箱具へ付けられてゐたやうだが昨日、尖沙咀で文化中心隣りの太空舘まで往つたのに。で郵送も間に合はず、かうなると九日のUrbtixでの窓口発売になるがダメもとで湾仔にある(……とここで書き出しの「湾仔」に繋がるのだが)郵送先住所に封筒に入れた購入シート持参。そこが香港で手広くネットでのチケット販売扱ふCitylineの事務所でビルの郵便受けも見つからず守衛の伯父さんに15階のこの会社に封書届けたいんだけど……と尋ねると「いゝよ」と、で会社のドアに封書挿して帰宅前にLockhart Rdのパブ、Trafalgerにカルスバーグ二杯。週刊読書人でテオ=アンゲロプロス監督の追悼特集読む。曇天日曜のパブのバルコニーで読むには寂しい記事。引退した、あるいはもう終はつてゐる監督ならだうでもいゝが映画撮影中の交通事故死。帰宅して豚のレバー焼き、鶏のレバー煮て澤山の新鮮な生野菜と飰す。メドックはCh Conteloupの04年。NHKスペシャル「映像記録3.11あの日を忘れない」見る。あの311を実体験として知らぬアタシはたゞ、せめて映像だけでも記憶に遺さうと、たゞ映像眺めるばかり。それにしても番組の最後で「これからも災害と向き合って生きていかなければならない。あの日を忘れてはいけない」とかコメントがあつたが当然、災害は今後もあるし、あの日を忘れてはいけないのだが、なぜ戦争になつたのか、なぜ空襲で、原爆であれほど悲惨なメに遭つたのか、核禍でもなぜ被害が最低に抑へられなかつたのか……真の原因は何で誰が加害者なのか、だが本当に責任があるのは「民主主義なら」自分たちであり「日本といふ国の本当の危機は何なのか?」をば真摯に考へなければならないのだが、さうした本当の責任をば問はぬまゝ復興して、また「絆」だとか抽象的なことだけに収斂させてしまひ……では、また何かの天災か人災か政治的危機か、未来半永劫的に救はれぬだらう。マスコミでさういふことを伝へる一つの秀逸なる取材が朝日新聞で連載される「プロメテウスの罠」なのだが朝日新聞は同社の出版がこの連載の新刊化に興味なく!学研から。
▼「教科書採択―法の改正はどうした」と今朝の朝日社説(こちら)。八重山の問題、「採択地区の小規模化」は一向に進展せず「(採択)協議会と自治体の判断が食い違ったらどちらを優先するかのルールを、早く定めるべき」と。だが採擇地区小規模化すればあちこちにファッショ首長のもと「作る会」教科書となり協議会優先とすると八重山のやうに協議会掌握されちまふと竹富町のやうな良識が通用せず。いずれにせよ樋口陽一先生が述べてきたやうな広義的な普遍的なナショナリズムにならず卑小なる日本民族教育に陥つてしまつてゐる教育では何ら解決しないのだが。
▼最近、地味に「週刊読書人」読んでゐるのだがジョン=アーヴィングの新刊「あの河のほとりで」新潮社の評(大串尚代)と、偶然に同書が朝日の書評(斉藤環)にもあり。読み比べると面白い。いずれの書評も物語の一部、そして実は一番、決定的にこの物語の大切な出来事を紹介するのだが後者は

主人公ダニエルは、コックである父ドミニクの愛人を熊だと間違えてフライパンで撲殺してしまう。彼女が執念深い保安官の愛人であったことから……

なのに対して前者は

地元の樵や丸太の川流し師たちを相手に食堂を切り盛りする料理人ドミニク・バチャガルポは、男手一つで十二歳の息子ダニエルを育てている。ある晩、ダニエルは父の寝室から聞こえる呻き声を聞き、父親に何か……毛むくじゃらの物体……がのしかかっているのを目撃する。熊が父親を襲っていると思った少年は、かつて父親が熊を撃退したときに使用したとされるフライパンを手にし、熊を殴り殺してしまう。

と、同じハプニングで、勿論、新聞といふ制約も表現や文字数であるのはわかるが前者では何だか滑稽な話にも読めるのが後者では実は父とこの愛人の性行為を知らぬ少年の、といふ点で「ぐぐぐ……っ」と書評でも引き込まれ、この話が「熊を放つ」につながるアーヴィングにとつての原体験なのか、とすら想像する。ゲスな話だが、愛人の印象も後者で熊と思はれては何だか巨漢の肝っ玉母さん想像するが前者では(毛むくじゃらが身体じゅう多毛なのではなく)性行為で長い髪を振り乱し悶へるグラマラスな熟女とまで想像できまひか。